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およそギャンブルとは程遠い生活をしているぼくだがとても楽しめた。主人公は作者自身がモデルと思われる一橋大学の一年生。転がるようにギャンブルにのめりこんで行くさまが描かれている。描かれるギャンブルは麻雀と少しだけ競輪。競輪はほんの少しだけなので麻雀小説と言っても良い。作者自身のギャンブル観ともいえる哲学が随所にちりばめられ、ギャンブラーの単なる言い訳を超えた何かがあるのかと本当に思わせてしまう。この哲学は人生哲学にも通じそうだ。 確かに勝負の世界は魅力に溢れている。本作でも緊張感あるシーンが続き胃が痛くなるほどだ。登場人物もそれぞれにとても魅力的。だが、物語としてはすんなり運びすぎているかな。 作中の人物たちは魅力的だが、現実に目を向けてしまうと、作者自身が小説中で語っているようにサラリーマンで半端なギャンブラーは始末に終えない。ましてや普通の人と所帯を持ち、一家の主としての責任を負いながらギャンブルにのめり込んで借金を抱える人々のなんと多いことよ。ギャンブルは魔力、と言ってしまえばそれまでだし、自制心を持ったギャンブルでは本質に近づけないのもわかる。が、現実は現実。直視しなければね。 蛇足ながら、本作の主人公梨田は作者のデビュー作『流星たちの宴』の主人公でもある。長じた梨田が登場する。ウエットなハードボイルドだが一読の価値はあると思う。 |
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本質的には愛の物語なのだろうが、そこは篠田節子、それだけでは終わるはずがない。脂の乗り切った作家が饒舌過ぎず寡黙過ぎず小説世界を描ききっている。特に際立つのは人物描写だ。対立する臨床心理士ふたりを見事なまでに描きわけ、さらに意外な展開に結び付けるあたりは職人技じゃないだろうか。 脳の異常=超能力と結びつけるのには少々鼻白むが、ストーリー展開は非常に滑らかで無理がない。音楽論、芸術論も全く同感。さすがにご自身も演奏家と思わせる。文章も良い。行間からチェロの音が響いてくるようだった。 さて、確かこれが3冊目の篠田節子。多彩な題材を扱う作家のようだからじっくり読んでいきたい。 |
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作者自身が心底書きたかった小説なんだと思う。加えて、実体験(東京→青森間の自転車旅行)に基づいているから筆に勢いがある。勢いがあり過ぎて多少フライング気味の箇所もあるようだが、その鼻に付く部分すらも読書中には感動しているんだから世話はない。立派にハードボイルドしているのだ。 国道4号線−我が町(埼玉県春日部市)の幹線道路。たったこれだけでも物語に引き込まれてしまうのに、全般に漲る男の美学、少年の成長物語、自衛隊の暴走、と興味は尽きない。普段なら「クサいセリフ」と一笑に付してしますような「クサいセリフ」が妙にハマっている。ただ......少年は好きになれないなぁ。お前、そんなセリフを吐くなんて20年早いぞ!!って.....。いまだに解っていないオヤジはやっかみ半分で言ってみたくなるのだ。 しかし、この自衛隊は一体何なんだ。ことごとく素人に粉砕され、危害を加えようとしても無視され、全く情けない。それだけ主人公の意志が強かったってことなんだろうか? ま、御伽噺なんでしょうね。 ところで、あの徒歩の旅人は何?? |
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ノートとペンを用意して読むことを薦める。なんてったって千数百人の村全体をどうこうって話だから登場人物が桁違いに多い。上巻の半分近くまでは村人の日常が淡々と語られる。このあたりは、正直言って非常に疲れる。物語全体は上下巻ニ段組1,200ページ以上。こんなに長くする必要あったの? 思わず問うてみたくなる。 確かにこの退屈な描写は後半の物語を読む上で必要だろう。村人の人間関係を理解することは必要不可欠ではあるだろう。でも、作家でもない者が大変失礼だが、もっとスリムで尚且つ作者の意図を伝える作品に仕上げることは出来たと思う。冗長などとは言わないが少し残念な気持ちがする。執拗に過ぎた気がしてならない。 差別する者と差別される者、人間と人間ではない者、生と死、の境界はどこにあるのか。物語の真の恐ろしさはここにある。あくまで冷静な筆致は人間の狂気の裏の裏まで描いていく。戦う敏夫だけでなく、『ポーの一族』を彷彿とさせる一家と静信にも感情移入はできるだろう。勝者もなく敗者もない。が、残念ながら読み終えたとき、やっと終わったか。そんな安堵感しか覚えなかったぼくにこの本を語る資格はないのかもしれない。 |
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どうもこの作家とは相性が悪いようだ。暗ぁ〜く、重ぉ〜たいトーン。思わぁ〜せぶりな描写。どれを取っても合いそうにない。この手の話って嫌いじゃないはずなんだけど。。。。などと言いながらも『蟲』『死国』『狗神』『桃色浄土』と結構読んでいる。ああ、『蟲』は2/3程度で挫折しているから読んだうちにはいらないな。上にあげた中では『桃色浄土』が一番良かった。あれはおもしろかったんだが。。。 さて、またまた「カタリ派」の登場だ。ついこの間、『フリッカー、あるいは映画の魔』で登場していた異端の徒。重要な役回りだったので理解しようと悪戦苦闘したのだがうまく結果に結びつかなかった。遠い海の東と西で取り上げられた「カタリ派」。。物語そっちのけで「カタリ派」に俄然興味が湧いてしまったのだ。それと中世ヨーロッパの生活様式。う〜ん、巻末の参考文献を参考にインターネットで調べたり、書店に出向いたりしている。これだけでも拾い物か。 神とか宗教とか生とか死とか、、興味が湧いて、時間がたっぷりあるときに読んでみるといいかもしれない、、この本。 |
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「痛快 世界の冒険文学」とは、講談社が発行している少年少女向けに翻案された冒険小説の全集のこと。全24巻。とにかく、執筆陣がむちゃくちゃすごいのだ。志水辰夫の『十五少年漂流記』を皮切りに、逢坂剛、大沢在昌、花村萬月、森詠、田中芳樹、菊地秀行、伊集院静、らの目を疑うほどの作家たちが、『モンテ・クリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』『三銃士』『ハックルベリィ・フィンの冒険』『バスカビル家の犬』『真田十勇士』『奇巌城』などなど、、の古今東西の名冒険小説を翻案して刊行している。2ヶ月に1回くらいの割合で出ているはず。小学生のお子さんをお持ちの方には絶対お薦めなのだ。シミタツの『十五少年漂流記』が特にオススメ。 で、この本なのだが。。宗田さんてとっても文章がヘタクソ。息子に音読して聞かせていたので目立つ目立つ。この物語には、原作に登場しない少女エミーを登場させているんだけど、書き加えた部分と端折った部分がちぐはぐでまとまりが非常に悪い。枚数に限りがあるから短くまとめるのが大仕事だったのも分かるし、帆船の専門用語が多くて大変だったのもわかるんだけど、プロなんだからもう少しなんとかして欲しかった。思わず目を覆ってしまうような描写があったりしてとっても情けないのだ。この本はパスした方が無難かもなぁ。。 |
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なんと凝った作品か。装てんからして奮っている。本の表紙には「死の泉」と黒いインク文字。が、よく見ると紫が混じっている。物語にも登場する青紫のインクだ。とすると、この表紙の絵はフェルメールか。更にページをめくるとまた表紙があらわれる。『死の泉』野上晶=訳?? 作中作?。。驚くべきことに物語が終了すると野上某のあとがきがある。もちろんここまでが物語なのだが。。このあたりはお読みになって楽しんで欲しい。ただし、この物語を楽しむには若干の忍耐と体力が必要。ぼくは衰えてきた体力に鞭打ち、ともすれば切れそうになる緊張の糸を紡ぎながら読んだ。 物語は第二次世界大戦真っ只中の1943年〜45年を描いた第1部と、1960年の第2部・第3部で構成される。舞台はドイツ。第1部では、ナチの「レーベンスボルン(生命の泉)」という私生児専門の産院で出産するマルガレーテの手記の形をとっている。ここにクラウス・ヴェッセルマンという所長がいる。彼は芸術を狂気の如く偏愛し、不老不死を研究しているらしい。戦時下のナチだから実験材料には....。やがて、マルガレーテはクラウスに結婚を申し込まれ、それを承諾する。エーリヒとフランツという二人の子供を養子にするためなのだが。。。 このクラウスという人物がとても怖い。この狂気はとてもよく考えて描かれていると思う。第1部ではそれ程でもないのだが、中盤、後半と狂気がより露わになってくると無性に怖くなる。 読みながら何の脈絡もなく、ケン・ラッセル監督の『ゴシック』を思い出していた。このクラウスの怖さと物語の雰囲気が『ゴシック』を思い出させたのかもしれない。幻想的で美しい。後半に差しかかると復讐譚のような気もしてくるが、読み終えるとまったく違っていたことに気がつく。クラウスの狂気がマルガレーテの狂気を巻き込んで.....神をも恐れぬ所業か、それとも白昼の悪夢か。。。作者の意図はひとつなのだが、解釈は読者の数ほどあるかもしれない。 |
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解説を綾辻行人さんが書いているからではないだろうが、やけに本格物っぽかった。まず、舞台装置が本格っぽい。サヨコ伝説とか。。それと物語の雰囲気。新本格でよく見かけるそれにそっくり。まだあげれば、会話の垢抜けなさ....。ぼくは新本格を嫌っているわけではないのです。最近あまり読んでいないので誤解があるかもしれないけど。 全編に幾重にもフーダニットが張られている。一つ分かってもまたひとつ。またひとつ。だが、究極のフーダニットは読者の胸の内だ。ホラーといえばいえるかもしれない。読了後のさわやかさは青春小説と言ってもよいかな。こういう物語を読んでしまうと、物語の整合性なんてうるさいことは言いたくなくなる。ホラーなんだからいいじゃないか、って。ファンタジーなんだからなんでもありだぞ、って。 どちらかというと、ぼくは青春小説として読んだ。でも、わからないところ、おかしいところは「ファンタジーなんだから」で片付けてしまった。そんなテイストの作品。 主人公はサヨコでも誰でもない。主人公は学校。入れ物としての校舎。「学校の怪談」ってのがあったけど、確かに学校って怖かった。肝試しも良くやったなぁ.... この作品、決して嫌いなタイプではないのだけれど力が入らないなぁ。。。 所詮、コップの中の嵐なのだな。でも、愛おしいね。もう少し読んでみたい、恩田陸。 |
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説明口調が多すぎる。前半の主人公磯貝の愚痴ともつかない心情の吐露には辟易した。まるっきり馬鹿者じゃないか。後半になって目覚める磯貝とのコントラストを鮮やかにするのが狙いなのだろう。それはそれで良いのかもしれないが、いかにもありがちな展開で先が読めてしまい、しかも作者の意図が見え見え。物語を読む緊張感などまるっきり無い。『蓬莱』という大傑作をものにしている作者なのだから、この程度では全然満足できないのだ。はっきり言わせてもらえば、口述筆記をたいした推敲もしないまま本にしてしまったかの印象だ。お得意の格闘シーンもなりをひそめたまま。出来の悪い劇画の原作を読まされたような気分だ。 沖縄県を活性化させようとする人々に、自治省キャリアの磯貝がからみ、台湾マフィア、地元のヤクザが入り乱れての物語なのだが、いかにも中途半端で人物たちが右往左往したという印象しかない。どいつもこいつも作者に都合の良い勝手な思いばっかりで、虚虚実実のかけひきのおもしろ味などはぜ〜んぜん感じられないのだ。要するに前段階のシュミレーションが全然できていない、と思う。 現在の日本の疲弊したシステムに対する批判も変わりばえしない。かえって、武力に対する依存がほの見えてうそ寒い思いがする。特に篭城事件に関するくだりなどは、開いた口がふさがらなかった。この人、本気でこんなことを思っているのか。まさかと思うけど。 著作は多数あるが、旧作は絶版が多くて幻の作家的存在の今野さん。最近になってメジャーからの出版が相次いでいる。遅れてきた今野読者であるぼくが生意気だが、大きなチャンスだと思う。だが、本作みたいな熱のこもらない、いかにも職人的に手堅くこじんまりとまとめた作品では、お金を出して買う気持ちにはならない。新しいファンを惹きつけるためには、もっともっと強烈な作品を世に問うて欲しいのだ。次作期待。 |
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たまらなくハードボイルドが好きだ。ごく普通のミステリー読者であったぼくが、ハードボイルドを意識し出したのはいつの頃だっただろうか。数個の握り飯を手に映画館巡りをしていた頃であったか。暗い洞窟のような池袋の文芸地下で見た『処刑遊戯』と『野獣死すべし』。このあたりが出発点かもしれない。もちろん当時は小説より映画。だが、そんな日本映画ファンはごく一部で、すでに長期凋落ははじまっていた。閉塞状況を打開すべく、PFFなどで新人を発掘していた時代だ。 その時代、決して華々しいとはいえなかった脚本家丸山昇一さんのデビュー作が『処刑遊戯』だ。監督は村川透。本作『負犬道』に登場する映画監督高村道夫そのままと言えそうな、ドライブ感溢れる長回しが実に見事に決まっている。モデルは村川さんだな、などと勘ぐってしまう。余談だが、当時繰り返し見た映画に『鉄騎兵、跳んだ』という映画がある。主演が石田純一と熊谷美由紀。原作が佐々木譲。なんとこの作品のテーマ曲は松田優作が歌っているのだ。後に、丸山昇一脚本の『ヨコハマBJブルース』でも渋いノドを聞かせてくれた松田優作だが、この曲もかなりの聞き物だ。 丸山昇一さんはその後メジャーな脚本家となり、作品もハードボイルドの枠に留まらなくなった。ハードボイルドは一種精神の産物であり、マンネリに陥りやすく持続するのは難しい。現に、ハードボイルドを書かなくなった作家も数多い。書かなくなったではなく、書けなくなったが正解かもしれないが。そんな時、丸山昇一さんが小説家として本作を引っさげてぼくらの前に姿を現してきた。永遠のハードボイルド脚本家が、コテコテの純正ハードボイルド小説をぼくらに突きつけてきたのだ。 噂には聞いていたがこれほどだったとは...。読むほどに心臓の鼓動が高まり、波打つ感動に心が震えた。正真正銘、掛値なしの純正ハードボイルド小説の大傑作だ。近年、これほどに胸を打つ和製ハードボイルドがあっただろうか。あらゆるハードボイルド的要素がぶちこまれ、それでいて饒舌に流れることなく、しがらみから逃れられない人間を描ききっている。 小説に不可欠の要素といえばストーリィの他にも、たとえば文体のリズムであったり、物語の語り口であったり。その点、脚本家として長年創作活動を行ってきた丸山さんには、持って生まれたリズムがあるようだ。特に、練り上げられた構成=語り口が新人作家とは思えない老獪さを感じさせる。主人公伊原を巡る過去の物語が、句読点となって物語に独特のリズムを与えているのだ。澱みなく流れる本筋に差しこまれる傍系としての過去の物語。これが物語の厚みをグンと増している。実に見事。欲を言えば、格闘シーンにもう少し迫力が欲しいような気もするが、満足満足大満足の読書だった。 この本にはでっかい勇気をもらった。再び勇気が欲しくなったとき、きっとこの本を開くだろう。長く読み続けていくような気がしている。本当に良い本にめぐり合えた。 |
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いまどき、こんな作家がいたのか・・・・。これが率直な感想だ。執筆年代を誤解しそうな文体と、あまり好みではない私小説的な味わい。足掻くわけでもなく、のたうつわけでもない主人公の淡々と、ただ息をするために生きているような生。悟りでもなく、諦観とも違う。ただただ、与えられた仕事をこなして糊口を凌ぐ。死を望むわけでもない。無気力とも違う。亡羊とした虚無を抱えて、それとは裏腹に強烈に主張されるニヒリズムとでも言えば良いか。同じニヒリズムでも、花村萬月さんのニヒリズムは破壊的傾向があり、作者のニヒリズムには逃避的傾向があるような気がしている。 活気溢れる町-尼ヶ崎。主人公の周囲の人々も活気に溢れ、必死の生を営んでいる。だが、そこだけ薄墨を流し込んだかのような主人公とその居室。強烈な生を謳歌する人々に挟まって主人公の姿は異様だ。実にニヒル。腹立たしいほど自分の価値を認めない。人生を認めない。それでも生きなければならない。 この古めかしい名前の作家と文体からは想像もつかないエロティシズムが驚きだった。このエロティシズムは凄まじい。生の瞬間のひとつの究極であるセックスだから、これだけ脂っこい生の中では当然かもしれない。だが、主人公は尻の穴から油を流して生きているのだ。まったくなんという小説だ....と、ここまで書いてきて思った。なんでこれが直木賞? という声が多いのだが、実はこれは作者が充分にエンターテメントを意識して書いたのじゃないかと。ぼくは、車谷さんという作家は、この作品が直木賞を受賞して初めて知った。他は何も知らない。だから、勝手な思いこみだと思うが、急にそんな気がしてきた。 自分の中の虚無に気付いていない人は、露見して慄いてしまうかな? 既に抱えている人は、主人公のそれの徹底ぶりに仰天してかえって安堵するかな? でも、そんなもんですよ、きっと。 |
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今世紀最後の大型新人、という宣伝文句は決して言い過ぎではない。綿密な取材と細かなディテールの書きこみ、緻密な構成、加えて国際政治に関する正確な視線が、新人らしい気負いとともに非常に好ましく感じられた。スパイ小説といっても、ぼく自身は若干敬遠気味でほとんど読んでいない。だが、極東におけるこの舞台設定でこんな小説なら続きも読んでみたい。そう感じさせる小説には仕上がっていると思う。大器の予感がある。将来に対する期待は大きいのだ。 だが、誉められるのはここまで。巷間魅力的と伝えられる人物造型も、ぼくにはそうは写らなかった。少々生意気な言い方になるが、これは多分に作者の人生経験の未熟さに起因するのではないかと思う。今一歩踏み込みが足りない。人物誰一人とっても、上辺だけで薄っぺらい人物に写ってしまうのだ。特に留美、エディ、坂下、....etc。特に留美は、章のタイトルにまでなっている人物なのに非常に印象が薄い。登場シーンが少なすぎるのかも。エディの描写には失笑すら浮かんでしまう。が、主人公葉山のモタモタさはなかなか良い。青臭くて優柔不断なヤツなのだが、ぼくは好感が持ててしまった。葉山はハーフ同士の間に生まれた日本人。だが、外見は白人そのもの。所謂境界に立つ人物だ。このあたりに作者の壮大な意図が見え隠れするような気がしている。全体が四部作で構成されるらしいから、このあたりも楽しみではある。 前半は、葉山の情報収集を中心として静かに語られる。起伏が少なく展開もノロノロだが、日本国内を舞台とした地味な情報収集活動については興味深く読ませてもらった。問題は後半だ。一転して冒険小説になるのだが、どうも辻褄が合わない。腑に落ちないことがいくつも出てくる。展開もわりあいに雑だ。作者は冒険小説というスタイルに拘ったのだと思っているがすっきりしない。スタイリッシュに過ぎる仕上がり故か、餓える人々の叫びもなんだか上滑りしたかの印象を持ってしまう。とっても残念。次作にて大化けを期待しつつ....。 |