狼の領分      花村萬月
徳間文庫 1998年9月15日 初刷
 1991年に刊行された『なで肩の狐』の続編だ。物語は前作の直後から始まる。残念ながら、前作を読んだのは遥か昔なので記憶が定かではない。溶けきった記憶を辿れば、ムードが前作とはかなり異質なような気がしてくる。もちろん定かではない。そのうちに『なで肩の狐』を再読するつもりなので、読了後には感想を書き返る可能性もあります。

 異質なムードの原因は白神山地にあるかもしれない。作者のまえがきでも触れているが、この物語が刊行される前の年1993年に、萬月さんは「旅」誌の取材で北海道の天売(てうり)、焼尻(やぎしり)の両島に渡っている。この模様はエッセイ『笑う萬月』に「島へ」というタイトルで掲載されているので興味のある方はどうぞ。曰く、人間は、本質的に不自然な存在である。萬月さんはこの紀行文でもはっきりと言明している。

 本来、不自然な存在であるはずの人間なのだが、古来より自然と共存していた「山の民」と呼ばれる人々がいた。木常は札幌で「山の民」の末裔と知り合い、共に彼らの住みかであった白神山地を目指すことになる。いったん都会生活を経験した「山の民」が自然回帰を目指すわけだ。さて、これは受け入れられるのか。狼の領分とは果たして何か。木常たちを追う者も白神山地に入ってくる。圧倒的大自然の中で、主人公木常らは生死をかけて戦いを繰り広げるのだ。

 淡い諦観が漂う。諦観じゃないか...自然の摂理か。生きるも死ぬも自然の摂理ならば、死して土に帰るのは当然といえば当然。一見残酷な萬月さんの処置は何度も繰り返して語られている通り、自然の摂理なのだ。これは、萬月さんが確立を目論んでいる「新たな倫理」の根幹を成す哲学かもしれない。

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笑う萬月      花村萬月
双葉文庫 1998年11月20日 第一刷
 萬月さんはやっぱり過激だ。過激だけれど、妙に親近感を覚えてしまう。
 ぼくは小説を読むとき、作家の個性は気になっても、存在自体になどにはあまり興味を持たない方だ。持たれる方も迷惑だろうけどね。敬愛する逢坂剛さんや船戸与一さんにしても、エッセイなど読んだことがない。唯一例外が浅田次郎さんだが、この方は偶然に週刊誌でエッセイを拝見して以来、小説よりもエッセイの方おもしろいんじゃないかと思っているくらいだから例外だと思う。しつこいが、自ら進んで作家のエッセイを手にしたのは萬月さんが始めてかも知れない。

 とにかく、このエッセイ集と「あとひき萬月辞典」はディープな萬月さんファン必携の書なのだ。萬月さんの真摯さがひしひしと伝わってくる。数ある小説から萬月さんを読み取れず、エッセイなんかでにやける自分が腹立たしいが、萬月流ダンディズムとでも言うしかない矜持に溢れかえっていた。アウトローなんだなぁ。。インローのぼくがかなりの部分で共感しちゃうってことは、ぼくにもアウトロー的体質があるのだな、やっぱり。萬月さんの言う通りでした。。

 巻末の山田詠美さんの解説が最高にいかしてる。かっこいい。

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触角記      花村萬月
有楽出版社 1995年9月25日 初版
 完結していないと思うのだけれど...。萬月さんがエッセイで何度か言及している小説『たびを』ってこの作品のことじゃないだろうか。スーパーカブで全国を回る物語だそうだから、この作品のことだと思うのだけれど。残念ながら、本作では旅に出るところで終わっている。序章のみで一冊の本にしてしまったかのような印象。それなりにおもしろかったのだけれど。

 主人公次郎は萬月さんそのものでは? 邪推してしまうのだが、ギターテクといい、絵といい、萬月さん自身が特に色濃くでている人物のように思える。
 『ゲルマニウムの夜』の朧の原型が、イグナシオと言っている人もいるらしいが、その路線でいうならば、『ぢん・ぢん・ぢん』のイクオの原型を、本作の主人公次郎に見ることができるかもしれない。ちょっとしたカリスマ性。女性遍歴。女性を通して学ぶ哲学。もちろんイクオのそれとは比較にならないのだけれど、学ぶ姿には非常に共通点が多いと思う。いずれにしろ、萬月さん自身の色が濃いのは間違い無いと思うのだが....。

 当時の萬月さんを、エロ作家みたい、と言う人もいたが、これだけ読めば無理はないかも。年上、同級生、そしてなんと母親。萬月さんの小説で近親相姦ははじめて読んだような気がする。
 血縁による親子関係を否定する萬月さんだが、眠る母の顔を「デスマスク」にたとえる次郎の思索に、否定する理由を見たような気がした。 

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皆月      花村萬月
講談社 1997年2月20日 第一刷
 主人公は40歳のパソコンオヤジ。ある日帰宅してみると1,000万円の貯金と一緒に妻が消えてしまっていた。自暴自棄になったオヤジと義弟のヤクザ者との共同生活が始まって、オヤジは自己を再発見していく、、というような物語。

 読み始めたらすぐ物語に引きずり込まれるんだけど、どうも雰囲気が違う。どうしてかな? と思ったら一人称じゃないか! 萬月作品はこれが13作目だけど初体験。オヤジの視点で、しかも「私」だから困った。。冒頭からはなんだか普通の小説っぽい。感情を抑えた筆致とでもいえばいいのか。淡々としている。ヤクザ者のアキラが登場して、物語が転がり始めても変わらない。結局、最後まで淡々としていたのだ!! 
 
 考えてみれば、主人公は普通のサラリーマン。妻に逃げられて会社を退職したとはいえ、一流会社で橋梁の強度計算をしていた人間。萬月が忌み嫌ういわゆる「小市民」である。その「小市民」が最たるアウトローである「ヤクザ」と接点を持ち、自己を再発見していく。非常に皮肉たっぷりな作品といえるかもしれない。言いかえれば、アウトローと接することによって、「羞恥心」と「自尊心」に目覚めていく姿が「小市民」側から語られるわけだ。そして最たるアウトローのヤクザ者アキラを小市民が理解してしまう。これは、コペルニクス的転回と言えるんじゃないだろうか。誰もが心に隠し持っているであろうアウトロー的な部分。そこにスポットを当てたこの作品は、花村萬月という作家の間口を大きく広げたような気がしてならない。
 この作品は第19回吉川英治文学新人賞を受賞した。 

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あとひき萬月辞典      花村萬月
光文社 1998年3月25日 初版
 短編小説が三篇(「臑肉のシチュー、ポルトガル風」「富士の鱒釣り」「蝕」)と、エッセイ、それと一部で話題になった「鳩よ!」のロング・インタビューが掲載されています。

 一部で話題になった、の一部とはぼくが入会しているNiftyの「冒険小説&ハードボイルドフォーラム」ことです。通称FADV。
 FADVには「読書全般」という会議室があって、毎月末から月初にかけて「今月読んだ本」というタイトルで自分の読んだ本をアップする人がたくさんいます。それを萬月さんが見て、たくさん本を読んでいることを誇るというのを恥ずかしく感じないか、と『鬱』をめぐるインタビューの中で批判されているわけです。
 前から記事のことは知っていたけど、実際読んだのは初めてでした。半分は本当で半分は誤解っていうのが正直なところです。「今月読んだ本」をアップしている人たちの多くは、単なる読書記録、あるいは話のタネくらいにしか考えていません。じゃなければ、読書の水先案内人とでも言いましょうか。大勢の人たちが集うフォーラムではおのずと好みがわかれます。自分と好みの似ている人が必ず何人かはいるものです。その人の読んだ本を知って自分の読書の参考にする、そんな程度なんですよ。でも、たくさんの人たちが集まっているフォーラムですから、大量に本を読んだことを誇っている人だっているかも知れません。それが半分は本当かも、と考える所以です。わかって欲しいのは全員が全員自己顕示欲でアップしているのではないということです。毎月20冊も30冊も読む剛の者もいれば、毎月2〜3冊の読書家もいらっしゃいます。2〜3冊の人だってちゃんとアップしてお話をされています。肩身の狭い思いをしている訳じゃありません。理解し難い現象かも知れないけど結構和気藹々としてるんですよ。偽善の匂いがしますかねぇ。。こうやって読んだ本の感想を日付入りでアップするなんて、やっぱ萬月さんはお嫌いなんだろうなぁ。。

 長々と言い訳めいたことを書きましたが、小説を好きになればその作家に興味がわくでしょう。この本は花村萬月という作家自身に興味がわいたとき、是非読んで欲しい本です。ぼくは前半の「ダ・ヴィンチ」のエッセイが一番印象深かった。IQが200近くもあったらしい、、萬月さん。。

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ぢん・ぢん・ぢん    花村萬月
祥伝社 平成10年7月20日 初版第一刷
 萬月の作品を読むたび、その圧倒的なパワーに腰を抜かしていた。凄まじいばかりの破壊力。ぼくは萬月の作品を読むとき、物語の展開がどうだこうだなどとは考えない。その迸るエネルギーに触れたくて萬月の本を手に取っているのだ。
 最近の萬月は水を得た魚のごとき印象がある。『鬱』では、奔放で暴力的ともいえる言葉の洪水で読者を溺死寸前に追いこんだのだが、その機関銃のような観念的な言葉の連射は、羽化寸前の蝶のような状態だったのだと思えば納得がいく。
 
 この作品では思索は更に深くなり、性描写は更に文学的になった。羽化したのだ。『ブルース』などの作品によく登場していた「青臭い」というセリフは、作者自身の哲学的思索、言いかえれば純文学志向に対する照れ隠しだったんじゃないかと思わせてしまう。それは、決して青臭くなくここに結実している。水が流れるがごとく思索しつつ、これほどの傑作を生み出した萬月はやっぱり天才なのだと思う。

 それと忘れてならないのは、萬月描くところの人物たち。これだけ魅力溢れる登場人物たちを紡ぎだす萬月はホントにすごい。一時、萬月を評して物語の展開力が無い、などと批評をする書評家がいたが、見当はずれもいいところ。当時から萬月は登場人物の魅力で読ませてしまう稀有な作家だったのだ。

 ぼくは萬月読者としては遅いほうで『ブルース』が初萬月。ずっと『ブルース』が最高傑作と信じてきたが、ここにきてやっと比肩する作品に出会えた。感激している。やっかいだったのは、読書中労働意欲を奪われてしまっていたこと。あまりに深い思索は労働に結びつかない。身をもって体験させられてしまった。俺もまだまだ若いぞ、とほくそえんでいる自分が居たのも事実なのだが。

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ゲルマニウムの夜      花村萬月
文藝春秋 1998年9月20日 第一刷
 以前から萬月さんの描く主役、あるいは主役級の人物たちにはちょっとした傾向があった。もちろん例外も数あるのだが、最近作では、『二進法の犬』の乾、『ぢん・ぢん・ぢん』のイクオ、『鬱』の青田、がそれにあたると思う。遡れば、『笑う山崎』の山崎。そして本作『ゲルマニウムの夜』の主人公、朧。一括りにする共通項は何かと言えば、「カリスマ」だ。
 カリスマの周囲に殉教的信奉者あるいは組員が集い共同体が構成される。この共同体が萬月さんが描く擬似家族の本質であり、宗教団体も暴力団も本質は変わらないと豪語する拠所と思われる。

 『ぢん・ぢん・ぢん』で時田さんがイクオに問いかける。「有る」と「在る」の違いは何か。時田さんは、漢字の成り立ちから説き起こして「在る」は動かずにあること、と結論する。引いた例文は、「神は在る」。そしてイクオに問う、「イクオは、在るものか」と。これが萬月さん描くところのカリスマの条件であろう。
 
 萬月さんはアウトローだが、決してアナーキーな無神論者ではない、と思う。『ぢん・ぢん・ぢん』では既存のモラルの殆どを叩き壊し、この作品では象徴的に現代のキリスト教を完膚なきまでに否定している。一見、神を否定しているように見えるが、それは考え違いというものだろう。萬月さんが求めているのは原始のジーザス、言いかえれば「絶対神」あるいは「唯一神」または「救世主」。そして、憂えているのは神の不在なのだ。

 巻末のあとがきによれば、単行本に収録された3篇の中短編は、宗教を描く長大な物語のごく一部なのだそうだ。この作品の主人公朧は、萬月さんが既存の世界を全否定した上で登場させた「絶対神」たりうるカリスマ性を持った人物。全体主義に通じかねない思想は非常に危険なのだが、「羞恥心」と「自尊心」の哲学によって微妙なバランスが保たれる。
 そして、単行本に同時収録された中篇「舞踏会の夜」に登場したジャンだ。作中で朧が指摘しているように、彼は「絶対神」朧の対極に位置する「悪魔」的存在として配置されていくような気がしているが、どうだろうか。「羞恥心」と「自尊心」の哲学の欠片も持たないカリスマ。これは恐ろしい。もちろん単なる殉教者かもしれないが。

 この遠大な企みが完成した暁には作品群をまとめて『王国記』というタイトルが冠せられるらしい。果たして、萬月さんはどのようにして、どのような王国を築いていくのか。新たな地平に萬月さんの大いなる未来が垣間見えたような気持ちさえしているが、危険な道のりであることは間違いないと思う。祈るばかりだ。

 萬月的世界観に侵食されるのは、弱者である自分に無上の快感を与えてくれるのだなぁ(^^;;)。

 単行本には短編の「ゲルマニウムの夜」「王国の犬」と、中篇の「舞踏会の夜」の3篇が収録されている。「文學界」に掲載されたときは先の短編2篇で1篇を構成していたことを追記しておく。

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二進法の犬     花村萬月
光文社 カッパ・ノベルス 1998年11月25日 初版発行
 花村萬月が常に語っているキーワード「羞恥心」と「自尊心」を巡る哲学が更に一歩進んだようだ。尤もより鮮明に見えたのは、それらを重んずる(と思われる)ヤクザの世界で描かれているからかも知れないが。
 二進法とはいわずと知れた0と1。在るか無いか。白黒をはっきりとつける博徒の世界で、組長の娘とその家庭教師の愛を軸に物語は進む。

 少々失礼を覚悟でいうなら、今まで萬月作品に接する時ストーリー展開になど目を向けた事がなかった。その場面場面でのシチュエーションがおもしろく、際立った人物造形の人間同士のやり取りが最大の魅力だったのだ。が、この物語はどうだ。構成がしっかり組み立てられ、さりげなく伏線まで張ってある。若干の驚きさえ覚えてしまった。見事な人物造形に加え、盤石なストーリー展開が加われば鬼に金棒。萬月哲学の今後の行方も含めて目が離せなくなった。

 印象深いシーンが連続する萬月作品で最高のシーンといえば、『ブルース』で綾のバンドと村上とのセッションシーンであると思っているが、この作品のギャンブルのシーンはそれに勝るとも劣らない。オイチョカブ、ポーカー、手本引き。手にあせ握るとはこのこと。ニヒリズムのリアリズムか。。

 この作品は愛の物語であり、成長の物語であり、家族の物語であり、友情の物語でもある。これらのエッセンスをただのごった煮でなく、それぞれに際立った味わいを残したまま、更に深まった自己の倫理哲学を折り混ぜて萬月は最高傑作を生み出した。倫理哲学に関していうなら、哲学というより宗教に近くなったんじゃないだろうか? 思索はより平易な言葉で語られ、『鬱』で感じられた自分勝手さは微塵もない。カリスマを望む姿も宗教を思い起こさせる。
 いやいや、、萬月さん、あなたこそ時代のカリスマなんですよ。

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守宮薄緑 やもりうすみどり     花村萬月
新潮社 1999年3月25日 発行
 萬月さんの3冊目の短編集にあたる。収録作品は、
「崩漏」「守宮薄緑」「核」「裂罅」「穴があいている」「犬の仕組」「らん斑(「らん」の字は文へん?に門構えの中に東-出ません)」の7作。どれもこれも力作ぞろい。1995年から1998年にかけて「小説新潮」に書かれたものをまとめた(例外1作)ものだ。
 
 萬月さんは見も心も純文学の人なのだな。『ゲルマニウムの夜』の芥川賞受賞で、”うっそぉ〜”と思った人も、これを読めば異論はないはず。凝縮された萬月さんの小説世界が、一種異様な熱を帯びて展開されている。読後感は純文学そのものなのだ。生きること、愛すること。羞恥心からか一見悪ぶってはいるが、無垢で純真な交情に涙が止まらない作品まであった。萬月さんの作品で涙を流したのは初めてかもしれない。その「崩漏」、そして「裂罅」あたりがぼくの好み。いつもは饒舌な萬月さんだが、抑制の効いた精緻な文章で「生」と「性」を描ききっている。まぎれもない純文学の傑作短編集だ。

 「らん斑」について一言。萬月さんはエッセイの中で、いつか父親のことを書きたい、と言っていた。これが、その一篇なのだろうか。萬月さんに是非聞いてみたい。この正味7ページの短い物語の凄みは他を圧倒している。エッセイを読んで、萬月さんと父親のことについて少しだけ知っていたから感じたわけではない、と思うのだけれど。

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王国記    花村萬月
文藝春秋 1999年12月15日 発行
 新年早々、えらいもん読んじまったな・・・。
 ため息を漏らしつつ感想を書いているわけだが、これは芥川賞受賞作『ゲルマニウムの夜』から始まった、萬月さんの壮大な長編小説『王国記』のごく一部である。既に『王国記』というタイトルが冠せられているが、『ゲルマニウムの夜』を第一巻とすれば、第二巻というところだろう。連作短・中篇がいったい何篇集められて『王国記』が完成するかは予測もつかない。

 この本に収録されたのは中篇が2作。「ブエナ・ビスタ」と「刈生の春」である。「ブエナ・ビスタ」を読み始めて面食らってしまった。一人称は問題ない。でも自身を「私」と呼ぶコイツは誰だ? 朧なら「僕」のはず。。えっ?!赤羽さん??? ああ、『ゲルマニウムの夜』(正確には「王国の犬」)で朧に向かって、王国を目指せと言った修道士か・・・。なるほど朧と赤羽の会話の端々に、いずれ興すであろう宗教の教義のようなものの萌芽が見え隠れする。全く創造主の行いは、”退屈な連鎖”なのか”培養”なのか。それにしても、朧をたじろがせる赤羽の今後の役割が気になる。

 「刈生の春」で描かれるのは生命であろうか。タイトルに使われている「刈生」は意味不明。調べてみたけどわからない。勉強不足で恥ずかしい限り。刈って後生む、そんな意味だと思う。萬月さんの造語かもしれないけど。「ブエナ・ビスタ」で朧が赤羽にこんなことを言う。「たとえば僕がひとり殺したとします。それから女の人を犯して新たに生命を誕生させたとします。僕の殺人は許されますか」 刈生・・・・。こんなことを言う朧が、ヒヨコを殺戮した黒猫をどうするか。たった2cmの凍りついた牧草を刈る。まったく神の気まぐれ。朧の足掻き。

 この2編では、朧のカリスマは全く描かれない、と言うか感じられない。『ゲルマニウムの夜』で吐き気をもよおす程だった暴力描写も鳴りをひそめたまま。地味で思索的。潜伏期なのだな。前作で既成の宗教はみ〜んなぶっ壊したから、この巻では新たな哲学・宗教の萌芽が描かれる。でも一冊の単行本として読むと、前作よりもかなり落ちるかもしれない。あまりに混沌。でも、これはしょうがないのだよ。さ、これからだ>萬月さん。

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風 転      花村萬月
集英社 2000年6月1日 第一刷
 何かを抑えているかのような印象が強い。直截的で五感に訴えてくる描写も、絢爛豪華で威圧感さえ漂わせた受賞後の萬月さんとは違うような気がする。疾風怒濤の筆圧も感じられない。もしかして、この作品に愛着が無くなっていたのかな、などとつまらない感想を持ってしまった。1994年から足掛け7年にわたる連載で、その間2年以上のブランクがあった作品である。その間に、『鬱』が上梓され、『ぢん・ぢん・ぢん』が上梓され、『ゲルマニウムの夜』で芥川賞を受賞した。この作品で扱っているような題材は、すでに先に挙げた作品で語り尽くされてしまったような気がしてしまうのだ。『鬱』でも『ぢん・ぢん・ぢん』でも作家修行をしつつ、一種のカリスマを獲得しながら成長する若者が描かれた。『鬱』ではその狂気までも。今回のヒカルは、『ぢん・ぢん・ぢん』のイクオと腹違いの兄弟のようだ。「師」となる者もパターンがある。当然のごとくアウトロー。『二進法の犬』鷲津と乾のような、『ぢん・ぢん・ぢん』のイクオと時田さんのような。

 思想的にも新たな展開を見せてはいないと思う。『ぢん・ぢん・ぢん』で現代のあらゆる倫理をぶち壊し、『ゲルマニウムの夜』は更に徹底した上で新しい思想の胎動を感じさせた。だがこの作品では、相変わらず独特の論理展開をし、憲法まで登場させて「良心」について論じてはいるもの、『王国記』に比べればぞくぞくするような進化は見受けられない。論理の極端さと脆弱さに比べて、インパクトはとても少ないのだ。やはり遅きに失したのでしょう。間違いようのない萬月さんの哲学が散りばめられた力作であるが、傍流がごとき印象漂うわす作品になってしまったのは、出版時期を逸したことが大きいと思うだのだ。

 常に時代は自らに相応しい哲学を持ってきた。ここまで民主主義を罵倒するなら、新しい哲学の創始を目指してはいかがだろうか。実はすでに、独自の哲学をものにしつつあるような気もしている。とても誤解を受けやすい哲学を。もちろん、『王国記』で目指しているのがこの路線なのだが、それはあくまでも宗教である。萬月さんは哲学を目指すべきだ。宗教は論理が破綻しても逃げができるから。神様の思し召し……。この物語でも言っているが、自分勝手に論理展開をすればそれが正しくなる、これぞ宗教の宗教たるところである。しかし、できれば萬月さんにはこの路線は進んで欲しくない。少なくとも、この本を読んで「親殺しの倫理」に両手を上げて賛成する人はいないだろう。母殺しのバット少年に、ヒカルの姿を見る人はいない。誰もがバランス感覚に溢れた確立された個の良心を持てるわけではないのだ。果たして、それが逆説的な選民思想であるなら、地球人のほとんどは死に絶えなければならない。朧の宗教によって加速するのか、それとも生まれ変わるのか。この本は、その作業に加担していないだけ薄味になってしまったのだ。どうしても物足りない。萬月さんの次なる展開に目が行ってしまっているから。

 話があらぬ方向に向かってしまったが、いかにも萬月さんらしいロードノヴェルである。でもね、筋金入りの萬月マニア以外は読む必要ないと思うのです。芥川賞前後の萬月さんの入門書としては『ぢん・ぢん・ぢん』を超えないし、現在進められている悪魔的作業にも加担していないようだから。

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萬月療法      花村萬月
双葉社 1998年9月5日 第一刷
 「小説推理」に連載されているエッセイをまとめたものだ。ちょうど、萬月さんが作風の転換を図ったころの分だから、はっきりと文学に対する姿勢があらわれてますね。論旨明快、文章も脂が乗り切って水を得た魚だ。決して浅田次郎さんのように軽妙洒脱とはいえないが、萬月さんの人柄が窺い知れるエッセイ集だと思う。

 白眉は、全8回に渡って書き連ねた「辞書が完成した!」であろう。これは萬月さん愛用のIME ATOK9を作家花村萬月の好みの辞書に書き換えたという内容なのだが、手書きとワープロ書きの違い、あるいはアナログとデジタルの違いからひもといて、立派なひとつの文化論を形成している。萬月さんの執拗な思索に啓示された文化論は、デジタル時代のひとつの指標になりそうだ。決して大げさでなく、パソコンで文章を書く者誰もが漠然と考えていたことが、萬月さんによって見事に論理立てて解明されたのだ。

 その他、完全主義者の萬月さんらしい拘りがあちこちに見られる。萬月さんの今までのエッセイ集は、失礼ながら、あくまでも小説の添え物的萬月ファン向けだと思っていました。副読本的に小説と平行して読んではじめて楽しめると。ところが、このエッセイ集は小説から完全に独立して読むことができる。まるっきり萬月さんを知らない読者でも大いに楽しめるはず。やんわりと独自の哲学が散りばめられているから、これを読んで萬月さんの小説を手に取ろうという人もいるかもしれない。萬月さんもこなれた作家になりましたね。生意気ですがそのように感じ入りましたです、ハイ。

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吉祥寺幸荘物語      花村萬月
角川書店 平成12年11月30日 初刷
 最近の萬月さんとは思えない趣向の作品。お得意の「羞恥心と自尊心の哲学」やら芸術論やらが展開されてはいるが、肩の力がフゥッと抜けていて、その上どれも深く踏み込んでいかない。文章も軽めで努めて読み易く、最近の萬月さんの特徴である、意識的に引っかかりを作った絢爛豪華な文体は鳴りを潜めている。のたうつような五感に訴える直接的な痛みも少ない。暴力描写もほとんどない。

 じゃあ、ダメかというとそうではない。余裕綽々で懐の深さを感じさせるのだ。爽やかで明るくて、それでもハラワタに染みるような痛みが行間から読み取れる。初期を彷彿とさせながらも、間違いなく現在の萬月さんがそこにいる、不思議な雰囲気を持っているのだ。筆休めと言っては失礼だが、原点回帰を果たしながらも明らかに作家としての成熟を示す作品だと思う。

 物語は吉祥寺のぼろアパート「幸荘」を舞台にして、主人公で作家志望の24歳の吉岡を中心に、ミュージシャンの円町とカメラマン志望の富樫らの足掻く姿が描かれる。萬月さんお得意の主人公の成長物語で、美女がバンバン登場し、濡れ場のたっぷりでサービス精神旺盛だ。

 ぼくは懐かしかったですよ。ぼくも、江古田(練馬区)のあるアパートで一年くらい同じような生活をしていたことがあるんです。そのアパートには、ブルースギタリストがいて、俳優の卵がいて、あるオーケストラの関係者がいて、シナリオライター志望がいて、船乗りまでいた。全部で十いくつかの部屋があったが、ほとんど全員が知り合いで、夜な夜なそれぞれが友人を連れて集まって、セッションをしたり酒を酌み交わしたり。

「青春」などという気恥ずかしい言葉では語りたくないけれど、明らかに自分史から切り取られた時間がそこにある。ぼくらも吉岡と円町のように、おやじになって会ったらどうかと話した。でも、バラバラになった後、誰とも会っていない。ほとんど一生に匹敵する濃い一年だったから、それはそれでいいのだと思っている。お祭りというか、前夜祭というか。人生にはそんな時期が必ずあるよね。ぼくにとってはそんな郷愁を誘う作品であった。

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