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悪夢か、はたまた狂人の白日夢か。一見気弱な善人、って作者共通のキャラなのかもしれませんね。一見気弱な善人風には違いないのだが、これが平気で人を陥れる騙す殺す。明らかに偽善とは違う。単なる狂人かと言えばそうとも言い切れない。この手の主人公に多いギラギラと渇望した様子もない。天然なのですね。実に自然体なのである。 宗教は神が世界をこのように創ったことについて、さまざまな言い訳を用意している。紛れもない言い訳。ニック・コーリーやルー・フォードじゃなくったって敏感なヤツは敏感だ。もちろん、宗教にかぎったことだけじゃない。欺瞞に満ち満ちたこの世を嘲笑うかのように、ジム・トンプスンの主人公はのらりくらりと蹴散らしていく。底知れない邪悪さなのだが、見ようによっては無邪気とすら見えてしまう。演出によるのかと思えばそうでもない。まったく人を食った話。脳味噌をグラグラと撹拌されて、前後不覚に陥らないように。 この物語の主人公ニック・コーリーは、人口1280人の小さな町の悩み多き保安官だ。ひとたび悩みが頭を占領すれば、寝つくのに20〜30分もかかり、一日に8〜9時間しか眠れないほど悩んでいる? 一言でいえば、ニックがこれらの悩み事をひとつひとつ解決してゆく物語かな(^^;;;。乱暴にずる賢く計画的に大胆に。関係ないけど、読後に『時計じかけのオレンジ』で、♪Singin' in the rain 〜 と歌いながら蹴飛ばすあのシーンを思い出した。キューブリック監督はトンプスンの信望者らしいから、どこか共通のものがあるのかも知れませんね。 途轍もない毒を含んだブラックジョークの物語だなあ、と思って読んでいたら、予想を遥かに上回るとんでもない物語だった。ニック・コーリーはキリストとは腹違いの鬼っ子か。法執行官で自らが法律とも言える町で、大衆を相手に羊の皮を被ってやりたい放題好き放題。笑うに笑えぬジョークが読者を袋小路に迷い込ませる。巷間聞くほど哲学的思索が深いとも思わないけど、作者が言いたいことは十分に伝わってくる。オレが法律だ、なんて声高に叫ばない分、作者の思索が読者の脳髄に染み入ってくるのも事実なのだ。 ジム・トンプスンのどす黒さは、やっぱり独特です。エルロイとは違うし、マンシェットとも違う。言ってみれば、”天然黒” でしょうか。邪悪な黒い理性に導かれた理屈の無い邪気。目的も良心も自分を取り巻く全ては、自分が現状維持で生きるため己のため。そのほかの目的も無ければ、他人のための良心なんて無い。天真爛漫な”天然黒”。全てが生きるための手段。ただただ存在する邪悪。ああ、彼にとっては邪悪ですらないのかもしれない。 さて、この物語は決して踏絵ではないから、好きな人は好きってはっきり言いましょうね(^^;;;。 |
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数あるハードボイルド・シリーズでも最高峰との誉れ高い、マット・スカダー物の第14作目にあたる。現在進行形の私立探偵シリーズとしてはやっぱり最高でしょうか。物語中に書いてあったんだけど、アル中のマットが断酒して既に16年だそうだ。マットもすでに57歳くらいかな? 老いてなお進化を続けるシリーズは、いつからか犯罪小説的な色合いも持つことが多くなった。『倒錯の舞踏』あたりからでしょうか。殺人に手を染めたマットはこの物語でもかなり派手にやらかす。ハードボイルドはこの傾向が強いのですね。ただしこの物語の中心はあくまでも、あのミック・バルーだ。ミックの私闘に手を貸す格好になるわけ。私闘と言っても、派手なのは死人の数だけなんだけど。私闘を語りつつ、老境小説的な死生観を横溢させて物語を綴る。 探偵許可証を持っているマットなんてねぇ…。グラインドする横ノリの会話に身を委ねながらそんな風に思っていたら、ああ、やっぱり。そうだよなぁ、マットはこうでなくっちゃねぇ(^_^)。これもまた老境を示す事柄と納得しつつ、ラストまで味わい尽くしました。会話が9割を占めると言ってもいいくらいなんだけど、この会話が相変わらず抜群にすばらしい。ミックとの会話。エレインとの会話。TJと会話。酔わせてくれる。でも、ちょっと食い足りないかな。ミステリ的要素も、老境小説的要素もどうも中途半端。でも、ミックが主人公の犯罪小説(最近のσ(^_^;)好みの暗黒小説)と読めばそれなりには読める。ミックの独白なんてなかなかなもんだよね。老境小説的死生観なら、訳者もおっしゃる通り『死者との誓い』には敵わないからさ。 唐突だが、このシリーズは非常に不思議なシリーズなのである。全14作を見渡すとき、人によって前半作品を強力に推す人と後半作品を押す人とに分かれてしまう。後者にはどこをどう読んでいるんだか、あの『八百万の死にざま』を最低という人までいる始末。真っ二つと言っても良いくらい。これは一体どういうことなんだろう? 個人的意見として聞いて欲しいんだけど、読者が初めてマットに触れた年齢が白黒つけるような気がするのですね。それと酒を飲むか飲まないか(^^;;;。別にたいしたことじゃない気もするのだが、若い時に触れたトラウマを抱えた飲んだくれマットに愛着があって、酒も飲まずに考え事ばかりしているマットなんてね、と。逆にある程度年輪を重ねてマットを知った読者、つまり若い時にマットに衝撃を受けなかった読者は、最近作の渋みのある深い思索とその死生観に参ってしまう。なんだかミステリ的要素を忘れたようで恐縮至極なんだけど、そんなことを考えるわけです。自分はどうなんだろ? 『八百万の死にざま』も『聖なる酒場の挽歌』も『死者との誓い』も、『倒錯の舞踏』もどれもこれもみんな好きなんだな、これが(^^;;;。全部読み返してみるつもり、あります。 |
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評判の良かった『黒と青』や『血の流れるままに』よりも出来は良いように思う。これはリーバスに慣れたせい? モジュラー型をランキン風にアレンジしたかのようなストーリィ展開は相変わらず複雑怪奇。だが、前2作よりも整理されていてより分かりやすいと思えるのも気のせい? これも慣れたせい?(^^;;;。細かい説明を一切省いた作者の語り口が、今回は小気味良く感じられたくらいだった。リーバスというベトベト内省的でウェットなキャラを、硬質なカラッと乾いた語り口で描く。楽しめた。もうちょっと浪花節があった方がぼくの好みには違い無いんだけど。 謎のばら撒き方とその結末の配置も結構好み。ストーリィの流れに沿って一点に収斂する謎と、偶発がほろ苦さを誘う謎の絶妙のバランス。熟練ですねぇ、ランキン。大上段に振り被ったナチの戦争犯罪を、サイコ風に置き換えてしまったのは焦点をぼかしたようで少々不満が残るけど、これとても積もり積もった罪の成したる業と、更に過去・現在・未来のリーバスの姿とを重ね合わせれば納得できてしまうのである。 一番気を引いたのが、何回か差し込まれる娘サミーの誕生・成長にまつわるエピソードだ。リーバス夫婦の歴史が娘の誕生と共に語られる。絶望しているリーバスの現状と、希望に溢れていた当時の対比、希望としての娘の存在。仕事に逃げるしかなかったリーバスの苦悩は更に更に深くなる。音楽への逃避も散文詩的になって今にもブチ切れそうだ。この辺りが自分の共感を呼んだとは思いたくないけど、世のお父さんたちの苦悩を代弁しているのは紛れもない事実でありましょう。 そして、それらに被さる兵役時代から引き摺り続けるリーバスの苦悩。集団ヒステリーとも言える戦時中の悪行に背を向けられなかったリーバスは、現在の社会全体を集団ヒステリーと捉えて、忌まわしい過去を懺悔告解するかのように微妙にアウトローであり続けようとする。背を向ける姿は痛いほどだ。ぼくが前2作よりも上と思う理由はまさにここにある。ボッシュやホプキンズのようなトラウマも感じられず、ただただ駄々をこねるようなリーバスだったが、ここに来てやっとアウトローたる所以がはっきり見えたような気がするからある。 アウトローであることに理由はいらないかもしれない。でも、なんらかの背景があった方が説得力はあるし、読者の心の奥に入り込み易いのも事実だ。その辺をランキンが心得違いをしているとも思えない。『血の流れるままに』以前のシリーズ作品群で、たぶん言及されているのでしょう。そう思うとやっぱりこの翻訳順は腹立たしい。 |
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五感の総動員を強いる(強いらせる)小説だ。 まず聴覚。「ゴールドベルグ変奏曲」が鳴り響く。フィレンツェあたりから、自宅で読むときはバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」を流しながら読むことにした。電車の中でも、常に異端児グレン・グールドのスタッカートの効いたバッハが微かに鳴り続けた。陰影鋭いバッハ。レクターがハープシコードで奏でるバッハはもっと流麗なんだろうけど。 そして臭覚。豚、体臭、放屁など、生命が発する直線的な匂いの描写。香水、アフターシェーブローション。そしてワイン、料理。当然これには味覚が伴う。おぞましい味覚の記憶は無いから、このあたりはもちろん推測するのみ。最終章近く、ハイライトは脳味噌の味覚…。もともと臭覚・味覚は敏感な方なので、あまりに大胆かつ鋭い描写で辟易してしまった。 視覚面は最も鮮鋭だ。鮮やかな古都フィレンツェの描写。メイスンの容貌、イノシシ真っ青の野豚の食事などなど枚挙に暇が無い。触覚。クラリスの車に乗り込んだレクターから迸り出た、思わず身震いしてしまう行為。おっとこれは味覚か…(^^;;;。バッジの感触。これらが複合的に、これでもかと読者に迫ってくる。息苦しいほど圧倒的に濃密な小説空間がここにある。 身体で覚えてしまったひとつひとつのシーンが折り重なるようにして、読者の”記憶の宮殿”に迷宮を作り出す。果たしてこれは愛の物語なのだろうか、究極の癒しの物語なのだろうかと。何故、ランデブー初期のクラリスに薬剤を投与する必要があったのか。心の障壁を取り去るため? 治療の一環と捉えるなら、元々持っていた感情をレクターによって増幅させられたと受け取るのが常道なのでは。とすれば、レクターが仕掛けた一種の洗脳であり、食らわれた妹ミーシャの復活に他ならないのでは。もう少し好意的に捉えるなら、人格の融合だろうか。互いが互いの”記憶の宮殿”を共有する。更に言えば、クラリスも確信犯だったか。ミーシャの記憶を共有することにより、より深い愛情が生まれた。レクターにはクラリスを思いのまま操れないのはわかっていたのだから、きっとこれが正解なのだろう。とすれば、巷間溢れ返っている深い究極の愛の物語という感想は当を得ているのかもしれない。魂の融合? 究極の愛? 後半からたまにぶれる視点が気になった。当然意図的なものである。だったら作者の意図はどこにあるのだろうか。メルヘンに貶めたと見るか、昇華させたと見るか。受け取り方はさまざまだと思うが、これは当然昇華させたのでありましょう。伝説化するほどの愛。お互いを極端なサイコにデフォルメし、ここまでやらなければ描けなかった、現代に楔を打ち込む究極の愛情物語。ここまで考えてぼくはやっとそう理解することに決めた。祝福の筆にぼくも連座することにする。怪物と天使の融合。いやあ、長い道のりだった。 レクターのサイコたる背景が描かれることについて、賛否両論があるようだ。妹の存在、実際のレクターの症状・苦悩など人間的な部分が強調されて、人智を超えた存在でなければならないレクターが、やけに人間的に見えてしまうと。でも、ラストまで読めば納得するのでは? このラストにこのレクター。これで良いのだ。この物語をサイコと読んではならない。やはり魂の融合を果たす究極の愛の物語と読むべきなのである。 |
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これはとんでもない狂気を撒き散らす問題作でありますね。『内なる殺人者』『ポップ1280』と読んできたのだが、この物語にはどの作品にもないテイストがある。このテイストがまた作者らしいのだ。額面通りではないかもしれないが、所謂「善」が描かれるのだ。にもかかわらず、作者にかかると主人公の悪党ぶりよりも、善人の行動の方がずっと怪しく見えてしまうから不思議。主人公ビガロウの揺れ動く目を通すとわけがわからなくなってくるのだ。善も悪も両極ではなく、物事の単なる裏表としか捉えられなくなる。ビガロウの目を通して描かれる善と悪の狭間。どちらにしろ相手のあることで、相手によって善と見えたり悪と見えたりするわけ。 主人公も色合いが違う。作者の描く悪党は天然物で悩んだりしないと思っていたから、この主人公にはちょっとばかり面食らった。肌触りがヴァクスの『凶手』を思させる。絶対的な悪(そんなものがあれば、だが…)を描いてきた(と思っていた)作者が、善悪を相対的に描いているような気もする。主人公の悪党ぶりを描くのではなく、周りの人々に翻弄される悪党を描いているからかも。ともかくこの物語では主人公ビガロウよりも、ビガロウの目を通した周囲の人間たちの方がそら恐ろしい。もちろんこれはビガロウの悪意の裏返しなのだけれど。 唐突で暗示的なラスト。病魔と狂気のため、取り巻く全てが混沌としている。読者もビガロウの妄想とも現実ともつかない世界に引き釣り込まれる。わけがわからない。現実と妄想の区別がつかない真実と嘘の狭間。最後の一行を読んで、軽い眩暈を覚えた。書き飛ばした印象が強いのに、こんな衝撃があるとは…。 物語としては起伏が少なく、事件らしい事件も起きないから、その点を期待して読んではダメかな。足掻きつつ転げ落ちる人間の狂気をじっくりと読むべきなのだ。もっとも、これはビガロウに限ったことではないのだが…。 |
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なんとも救いようのないタイトル。こんなタイトルからどうしようもない内容を類推したとしても、それは読者の罪じゃない。作者の旧作は外れっぱなしなので、最初からかなり構えて読んだ。結果、それが良かったのかもしれない。『ボーン・コレクター』や『静寂の叫び』のディーヴァーを期待して読めばがっかりするだろうが、『汚れた街のシンデレラ』のディーヴァーと思って読めばそれほどがっくりはしないのだ。とても手堅いプロットで、意外性まで含めてラストまで目が離せなかった。この作品なら『ボーン・コレクター』のディヴァーがほの見える。 タッチや主人公の設定などは、純正ハードボイルドといっても良い作品だ。この題材をハードボイルド作家が書けば、臭みたっぷりの泣きのハードボイルドに仕上がったことでしょうね。ところが、ディーヴァーが描くとそうはならない。舞台はド田舎なのに、肌触りが都会的でとてもソフトなハードボイルドに仕上げているのだ。唐突な人物の出し入れとか、不可解な場面展開などが少々見られるが、全般的にはそれなりに出来た作品だと思う。ただ、ハードボイルド好きから見れば、ちょっと物足りない。もっともっと勿体つけてドラマを盛り上げても良かったと思う。主人公の来歴なんか見せつけるのが遅すぎるし。たぶん、問題があるとすれば構成なんしょうね。 その難ありの構成のためか、最近作であれだけ読者手玉に取った作者であるにもかかわらず、後半部の山場に差し掛かってもサスペンスは盛り上がらず、ページを繰る手はノロノロのまま。展開を早くして、無駄を省けばもっともっと良い作品になったのに…。前半部の妨害も手ぬるい。もっと執拗な妨害をさせるなくっちゃ。ああ、あれは妨害だったのかってあとから気付いたくらい。読書中に、今のディーヴァーならこうしたのになぁ、と何度思ったことか。悪意なのか、何なのか…主人公の五里霧中のジレンマはわかるんだけど、主人公側からの描写と一種倒叙物的な描写のバランスと含みが少ないので、体制側憎しの判官びいきもなかなか盛り上がらない。中途半端。もう一ひねりした構成ともうちょっと人物に緩急をつければ、数段記憶に残る作品になったと思う。だが、現在のサスペンスの名手ジェフリー・ディーヴァーの萌芽が見えるのは事実。ディーヴァー愛読者なら読んでおいて損はないと思う。 |
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詩集である。作者が30数年に渡って交流してきた、プエブロ・インディアンの哲学というか死生観が散りばめられた珠玉の詩集である。アメリカでの出版は1974年。それ以来大反響を呼んで現在に至っている……らしい。 アメリカの原住民はご存知のように、ベーリング海峡を渡ったと言われるモンゴロイドである。だから、ではないだろうが、彼らの死生観は東洋思想に通じるところがありそうだ。彼らの哲学が、輪廻転生がある程度は染み込んでいるぼくらよりも、欧米人らにかなりの衝撃を与えただろうとは容易に想像できる。 この本の原題は『Many Winters』だ。「たくさんの冬を わたしは生きてきた……」で始まる詩集には、人間は自然の一部である、という現代人が忘れかけた初心な魂が満ちている。抗いがたい大自然のなすがままに、決して打ち勝とうとせず、かといって屈服するわけでもなく、それこそ自然のままに受け入れようとする態度。自然と一体となって謳歌する生にとっては、死は決して恐れるべき存在ではないのだ。 代々受け継がれてきた思想は、大地と共に累々と連なった、先達の知恵が積み重ねられた結晶なのである。己が何者であるか。彼らの答えは明らかに正しい。物質文明に犯されたぼくは、久しく忘れていた感情を思い出して胸が熱くなったのである。機会あるごとに開く座右の書になりそうだ。 |
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デビュー作『若き逃亡者』でストーリィテリングのうまさを見せつけた作者が、再度逃亡者を主人公に描くサスペンスだ。前作と同じく、この物語も良質なハリウッド映画を見終わったときのような充実感が味わえる。ハラハラドキドキのサスペンスの王道だ。人物がおもしろい。主人公家族の設定が仰天なら、取り巻く人々、敵役、凄みのある殺し屋など、多彩な人物配置で楽しませてくれる。ストーリィはジェットコースター。その上よく練られている。あぶりだされる真実はいささか荒唐無稽だが、読者の期待を裏切らずに虚を突くのはうまいと思った。だが、ちょっとばかりうまく運び過ぎかな。凄みのある殺し屋はいいんだけど、こんな稚拙な処理しかできないのにあそこまで昇り詰めるなんてちょっと考えにくいな。 概ね良好なのだが、少々冗漫な印象が否めないのが残念といえば残念。のっけからハラハラシーンが連続する。だが、物語を膨らますためかどうかわからないが、はっきり言ってどうでも良さそうなエピソードが多くて、そのたびに集中力を途切れさせているのはいただけない。特に上巻の前半あたり。人物ひとりひとりに背景を持たせて膨らますのも良いが、場面場面で使い分けて欲しいのだ。もしそれが、作品として深みを増すための描写だったとしたら、間違いなく失敗している。後半に生きてこない。本当に生きた描写が出来ていれば、ラストなどは涙ハラハラ止めどないはずなのだ。どうみてもその辺を狙っているようだから、作者今後に期待でありますね。 構成もあまりうまいとは言えない。それよりも何よりも最悪なのは、文章でしょう。翻訳の方が四苦八苦されている姿が垣間見える。っていうか、訳文もひどい。この手のサスペンス物は、短いセンテンスで歯切れ良く綴ってこそ物語にスピードが生まれ、ドライブ感がいや増すのだ。この悪文が是正されて、不必要な部分を切り落とす勇気が身についたら、この作家はたいへんな作家になるような気がする。この物語だって、2/3くらいの長さにまとめていたら、大傑作とオススメしていたかもしれない。まあ、あれもこれも全部含めて今後に期待です。 しかし、自分の娘に向かって「お嬢さん!」って呼ぶかね。正しい日本語はいったいなんでしょ? それともこんな違和感はぼくだけなのかな? |
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『静寂の叫び』の感想でも書いたが、最近のジェフリー・ディーヴァー作品を解く鍵は「共感」なのだと思う。『ボーン・コレクター』では、リンカーン・ライムとアメリア・サックス。あるいはライムと犯人。『静寂の叫び』では、人質と犯人、犯人とFBI交渉担当者、交渉担当者と人質。その「共感」が通り一遍ではないサスペンスを生み出す。つまり「共感」したがゆえの心の枷が、時間的サスペンスの外周に二重三重のサスペンスを作り出すのだ。ディーヴァーの最近作の多くがプラトニックな恋愛を描くのにはこういう理由がある。男性キャラと女性キャラが「共感」すれば、おのずと恋愛に形を変えるだろうから。 この図式をこの物語に当てはめると、主人公である元FBI文書部の責任者で文書検査士のパーカー・キンケイドと息子のロビー。パーカーとFBIのマーガレット・ルーカス捜査官。パーカーと犯人にもある意味の感応があるだろうから含んでもいいだろう。押し寄せるタイムリミット・サスペンスに、これらの枷が被さる。が、果たした役割はそれほど大きくない。作者が仕掛ける罠にもある程度予測がついてしまうし。それよりも何よりも、惹かれあうパーカーとルーカス捜査官に、「おいおいまたかよ」ってな感想を持った時点で、この物語に対する評価は決まってしまったのかもしれない。 とっかかりは『ボーン・コレクター』と同じ。リンカーン・ライム=パーカー・キンケイド。”元”の立場で事件に絡んで……。とても似通っている。残念ながら、パーカーにはライムほどの際立った造型はない。サスペンスを煽る肉体的ハンディはないが、二人の子供たちに注ぐ愛情と、離婚した元妻との親権を巡っての争いが物語にアクセントをつける。ルーカス捜査官にはアメリアに勝るとも劣らない背景があるが、アメリアほど抽んでた人物造型ではない。パーカーの子供に対する一本気な愛情がとても気持ち良い程度かな 二転三転する展開はさすが。だが、あまりに強引。犯人が死んでこんなにページが残っているなんてどういうこと! それからはあれよあれよと作者の独壇場だ。なるほど、それなりに伏線を張ってあって周到に練られているが、少々都合が良過ぎる。っていうか、全体が作り物めいて、どうも物語に入りきれない。作為的過ぎるのだ。「ディガー」の独白が原因かも。ほかにもいろいろあるんだけど…。ちょっと今回は作りすぎましたね。これは悪い傾向jだと思う。作家としてのピークを過ぎたかな。 ただし、シリーズ物好きなぼくは、このふたりの行く末に興味津々ではあります。 |
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『警察署長』の露骨なまでのアメリカ賛歌に辟易して、作者からちょっと遠ざかってしまった。『草の根』も、解説のこぶ平オススメの『ニューヨーク・デッド』も『サンタフェの裏切り』もみんな仕入れてあるのだが。たった一冊読んだだけで、スチュアート・ウッズさん=右翼(^^;;;との図式が出来上がってしまったのでした。全くお恥ずかしいばかり。懺悔というわけではないが、この作品は誉めちゃいますね…(^^;。 設定、人物、ストーリィテリング…、どれを取っても一級品だ。ちょっと軽すぎやしないか、と思わず目くじらを立てたくなるほどのサービスぶり。一度開いたら決して本を閉じることのできない、果てしなく続くジェットコースターノヴェルだ。特に、後半に入ってからは心臓に良くない場面が続く。心肺機能に問題のある人は避けた方がよろしいかも。結末の見えるサスペンスには違いないが、そんなことは先刻承知。結末に至るまでのディテールの積み上げ方と工夫と、主人公の人物造型がお見事なのである。 お約束のヒーローの恋愛が安易過ぎるとか、意外と脆い敵にがっかりするとか、後半のチェイスが簡単すぎるとか(空中戦を期待したのだ(^^;;;)、主人公のアンチヒーローぶりがちょっと半端だとか、敵味方がはっきりし過ぎて人間関係に捻りがないとか(これには恋愛が被る)、もうひとりの敵も随分脆くてひ弱だとか、この捜査官はできすぎだとか、それに絡んでたった数ヶ月で中枢に入れるなんてよっぽどの人材難なのだねぇとか……、不満をあげつらえばきりがない。でも、どれもこれも適度というか…、ほどよくサスペンスしてるのです。充分とは言い難いが、かなり満足できる出来栄えだと思う。もちろん、更なる捻りを加えればもっとおもしろい作品になったとは思うが。 元麻薬取締局捜査官で濡れ衣を着せられて服役中のジェシー・ウォーデンが潜入捜査する先は、武器密売の疑いのある新興宗教の教団だ。教祖はベトナム戦争の英雄。今日的なうまい設定だよね。しかも、潜入捜査しつつ濡れ衣を着せた相手に復讐も忘れない。結局、名より実を取るのだね。それなりのカタルシスが用意されていて、それなりにスカッとさせてもらえる。前述の不満さえ我慢すれば、かなり楽しめるのでは…。映像向きの作品でもあるから、誰か映画化しませんかね。おもしろい映画になると思うんだけどな。 |