転落の道標    DARK RIDE  ケント・ハリントン  古沢嘉道訳
扶桑社ミステリー 2001年2月28日 第一刷
 世の中、ノワールブームだそうだ。大手の新聞社の読書欄で、ノワールについて語られる時代。万人ウケするはずの無いジャンルが、ここまで注目されるなんて信じられない思いだ。こうなると編集者たちは、なんでもかんでもノワールと銘打ちたくなるものらしい。なんでもかんでもノワールと帯の惹句で謳えば、それでノワールのつもりでいる。この小説は、そういった時流に乗った粗製濫造の自称ノワールが、束になって挑んでもかなわない真性真っ黒ノワールだ。凡百の自称ノワールの帯に、ノワールの文字を打った編集者たちは、これを読んで勉強するべきだろう。

 やはりキャラクターだ、と読み終えてつくづく思う。高校時代の同級生の仲良し倶楽部が有力者になって、町を牛耳ろう権力闘争をする。その渦中で、主人公は利用され尽くすわけだが、こんな設定は、どこにもありそうでそれほど目新しくもない。だが、堕ちゆく男の物語を読んでここまでゾクゾクさせられたのは久しぶりだ。過去の栄光にしがみつき、現状を把握できず、なにもかもが杜撰なクセに大物を気取る変態セックス中毒野郎ジミー・ロジャーズ…、近来稀に見るろくでなしだ。ここまで見事に、足掻きつつ転落する姿を描いてくれると爽やかにすらなる。いや、実際気持ち良かった。

 若干の狂気入り混じり、複雑に屈折する主人公の造型は、やはりジム・トンプスンを思い出さずにいられない。ただ、巻末で解説者の方も書いていたけど、ジム・トンプスンは悪党に余計な理由をつけない。彼の描くキャラの本質は社会的な善の欠片も無い大悪党。極北の冷たさなのだが、裏を返せば自分に素直なだけなのだ。その破格のキャラに比べてしまえば、小粒なのはしかたなかろう。やること為すこと裏目恨め。30年の長き渡って市長として君臨してきた父親の幻影に怯えつつ、自らを奮い立たせて父の影を乗り越えようとする弱い普通の男。ジム・トンプスンの黒さと、ケント・ハリントンの黒さとどっちに戦慄するかと問われれば、ぼくはこちらの方により戦慄する。

 残念なのは、悪女を演じて演じきれないイブ・スタックだろうか。もうちょっと、堂にいった悪女として描いてくれたら文句の言いようがなかった。ともあれ、今年最大の収獲。小太郎さんありがとう。むちゃくちゃおもしろかった!

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頭蓋骨のマントラ    THE SKULL MANTRA  エリオット・パティスン  三川基好訳
ハヤカワ文庫 2001年3月31日 発行
 ミステリとしては反則スレスレだと思うんだよねぇ…。複雑怪奇を装っていて、というか確かに複雑ではあるんだけど、ミステリの部分に限って言えば底が浅いような…。評判ほどではないような…。イギリス流の本格ミステリに、アメリカ流のハードボイルドな主人公を配するパターンはそれほど目新しくないけど、チベットが舞台で、しかも探偵役が囚人ってところが目新しくて惹かれたってとこか。

 しかし、読み難いこと読み難いこと。会話がつながらない、うまく流れてもわけのわからない単語が次々と並ぶ。人物のつながりがわかりにくい、終いには誰のセリフかわからなくなる…。確かに、作者は付け焼刃な生半可でない仏教知識をお持ちのようで、雰囲気も良く伝わってきて、それだけはとても良かったと思う。でも、それだけだと思う。

 アメリカ人って、こういうオリエンタルなムードにものすごく弱いのね。これ以上でもこれ以下でもない。好みかどうかと尋ねられれば、迷わず好みじゃないと答えるタイプの小説。疲れた。ともかく、中国に他国の教科書がどうとか言ってる資格はないよね、これを読む限り。

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ミスティック・リバー  Mystic River    デニス・ルヘイン(レヘイン)  加賀山卓朗訳
早川書房 2001年9月15日 初版発行
 帯の惹句に、原りょう、S・キング、E・レナードといった日米の大物作家が賛辞を寄せ、裏表紙に目をやればニューヨーク・タイムズ、ニューズウィークを初めとしたアメリカ有力紙(誌)の最大級の賛辞が買い気をそそる。ルヘインが、あのパトリック&アンジー・シリーズのデニス・レヘインとが俄かには結びつかず一瞬戸惑った。この物語は初のシリーズ外の作品。解説では北上次郎さんも賛辞を送るなど、鳴り物入りで日本に登場だ。だが、残念ながらぼくにはそれほどの傑作とは思えなかった。入念に伏線が張ってあって、見事な構成を合わせて考えればミステリとしてはとても良く出来ていると思う。キャラクターも見事に描き分けられ、深い洞察も合わせて、言うことない出来栄えには違いない。良い小説だとは思うがそれほどおもしろくなかった、というのが正直な感想だ。

 物語の発端は25年前に遡る。主人公3人、ジミー、デイヴ、ショーンが11歳だったころ、路上でふざけているときに、他のふたりの目の前でデイヴが誘拐されてしまう。4日後に無事保護されるのだが、性的虐待を受けた心の傷が大きく影を落とすことになる。そして25年後。雑貨店を営むジミーの娘が惨殺される。捜査するのは警官になったショーン。そして犯人としてデイヴが浮かんでくる。そして……。と、こんなストーリィなのだが、ジミー、ら3人の人生が手際良く詳細に語られ、同時代的な臨場感に富んだ雰囲気を醸し出している。特筆すべきは、3人の町、ボストンのイースト・バッキンガム周辺の雰囲気。とても厚く見事な出来栄えだと思う。

 しかし、無類の暗さとかったるさなのだ。登場人物はほとんどすべてが不幸で、ほとんどすべてが語る語る語る。語る登場人物は嫌いじゃないけど、限度がありますよ。人間の真実は、ほぼルヘインの思っている通りだと思う。でも、それを改めててんこ盛りで語られても疲れるだけで、若干の感動も疲労に押しつぶされて右から左にぬけてしまう。性的虐待の影響をうまく料理したのは認める。しかし、自らの小説のおもしろさを作者自らが規定してしまうような”語り過ぎる人物”は小説のおもしろさを半減させてしまうような気がする。客観描写が少ない。せっかくの大ネタで感動も深く余韻も残るのだが、重い事実を更に重く当たり前に語られても肩が凝るばかりなのだ。

 ストーリィ展開が鈍い。スピーディな展開を追いかける余り、三流のハリウッド映画もどきの小説が氾濫している中で、ここまで腰を据えて小説に向かう姿勢はすばらしいとは思う。しかし、素材が良くなかったのではなかろうか。少年時代の友人3人が長じて後事件に遭遇する。少年時代の真実。こんな設定はとてもありがち。誰も心に傷があり、というのもどこかで読んだ。すべてを呑み込む河も、時代が変わろうが、何が起ころうがそこに存在する河…。何に準えようとも…。目新しさに惹きつけられるわけでは決してないが、悩む人々に何か新しい視点というか切り口が欲しかったとは多くを望み過ぎなのだろうか。

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24時間    24 Hours  グレッグ・アイルズ  雨沢泰訳
講談社文庫 2001年9月15日 第一刷発行
 グレッグ・アイルズ 24 Hours 講談社文庫 2001.9.15 第一刷発行
 いやあ、びっくりした。グレッグ・アイルズ、とうとうマイケル・クライトンもスチュアート・ウッズもジェフリー・ディヴァーも真っ青の豪腕作家になったようですね。ただし、読書中は楽しく読めたんだけど、読み終えたら右から左へ、スゥーっと消えてしまう。それに、読み終えてもわからないことがいくつか。例えば、犯人グループが24時間に拘る理由とか。どっかにかいてあったかな。ノンストップのサスペンスではあるが、ハリウッド映画もどきの作品で、嫌いな人はとことん嫌いなタイプの小説でありましょう。

 タイトルの示す通り、デッドリミット型のサスペンスと言えそうだ。3人家族のひとりひとりに犯人がついて、金持ちの子供の身代金としては割と小額を奪う誘拐計画。犯人3人が30分おきに定時連絡を取り合うというシステムまで含めてなかなか斬新でおもしろい。しかし、前段で書いたとおり、デッドリミット型たる24時間のリミットの理由と、誘拐された娘の小児糖尿病の枷が弱くて、残念ながら期待したほどのサスペンスは煽られなかった。ここらへんに大きな枷をつけられれば、もっともっと手に汗握るサスペンスになったと思うとちょっと残念。

 何よりも特筆すべきは、犯人と家族の6人が交錯する高速道路に軟着陸する父親操縦の飛行機アクションと、お尻の割れ目にメスを仕込むという垂涎の快挙に出て、犯人に阿部定ばりの攻撃を仕掛ける母親のエロチックシーンでしょう。どちらもサービスたっぷりでエンターテイメントの極み。残念ながら、受けて立つ犯人がちょっと弱くて興ざめしてしまうのが大きな欠点か。意気地がないよねぇ。割り引いても、スチュワート・ウッズを彷彿とさせるジェットコースターノヴェルだった。上流階級趣味もちょっと彷彿とさせましたね。

 悪く言えば、ハリウッド映画もどきの小説なんだけど、実際映画化されるそうだ。母親役にはデミ・ムーアがいいなぁ。違うみたいだけど。ひとときの楽しみは充分に得られる作品だと思うが。

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エンプティー・チェア    THE EMPTY CHAIR ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子訳
文藝春秋 2001年10月15日 第一刷
 ディーヴァーのことはいつも豪腕豪腕って言ってるけど、読書中は結構夢中で我を忘れていることが多い。で、読み終えてあーでもないこーでもないって粗探しをする悪い癖があるんだけど、今回は『ボーン・コレクター』と『コフィン・ダンサー』で感じた違和感をほとんど感じなかった。究極の安楽椅子探偵という新鮮味は無いが、その分、成長したアメリア・サックスに大きくスポットライトを当ててマンネリを打破しようとしている。もしかすると次回作はアメリアを中心に、ライムが脇に回るなんて配置も考えられるアメリアの成長ぶりだ。

 逃げるアメリアを追いかけるライムの図が、この物語の一番のセールスポイントなのでしょう。しかし、ふたりの知恵比べはほどほどで、期待したほどスリリングではなかったかな。ちょっと食い足りないと思ったのは、素直にアメリアvsライムじゃなかったから。全ての逃走手段がアメリアの発想というわけじゃないのだ。アメリア側には昆虫少年のギャレット・ハンロンがいて、逃げるふたりの主導権は彼が握っているわけ。彼が導き出す昆虫の生態にヒントを得た逃げっぷりは、アイディアに満ちていて読み応えがあったが、所詮脇役だよねぇ。と言いつつも、この昆虫少年の造型は見事だったのは間違いない。ディーヴァーは毎回核になる人物造型に見事な手腕を発揮するが、今回の昆虫少年は出色の出来だ。

 今回はマジで、シリーズが終わりそうな勢い。だって、アメリアは重罪犯として捕らえられ刑務所行きなのですよ。さあ、ライムがどう出るか。固唾を飲んで展開を見守る、相変わらずの息をもつかせぬサスペンス。冒頭から、ライムの手術と囚われた女性の危機というふたつのタイムリミットを仕掛け、その上幾重にも張られたトラップが読者を絡め取る。気を緩めてしまうと、すぐに作者の術中だ。わかっていてもキッチリと煙に捲く作者は凄いの一言。何度も書くけど、物語の自然さ、というかスムーズさはシリーズで一番だと思う。最近は眉をひそめてしまうことが多かった引っくり返し方も、今回はすんなりと納得した。ぼくは『ボーン・コレクター』に勝るとも劣らない傑作だと思う。『悪魔の涙』の感想で作家としてのピークが過ぎたんじゃないかと失礼なことを書いたけど、とんでもありません。まだまだ楽しませてくれそう。

 今回は、「共感」に若干の捻りが加えてある。アメリア・サックスと昆虫少年ギャレット、アメリア・サックスと女性保安官ルーシー・カー、が感応するのだが、双方とも思いは一方的なのだ。アメリアが昆虫少年に一方的に、女性保安官がサックスに一方的に共感する。アメリアは母性が入り混じった感情を持て余して少年と共に逃亡することになってしまい、ルーシーは共振が大きかったため、アメリアに裏切られた思いが強くなって追跡に力が入る。対照的なのだが、根底には「母性」があって、実はそれが事件解決の根幹だったりする。うまい。

 スムーズさが招いた結果として、ディーヴァー独特のアクが少なくて物足りないと感じる読者が多いかもしれない。ライム物だけでなく、サイコ野郎との対決作品が続いたので、今回のノーマルぶりが拍子抜けに見えるとか。でも、ディーヴァーの特質は無類のストーリィテリングと、人物造型の深さの有機的合体にあると思うぼくは、今回も大満足でありました。

 因みに「空っぽの椅子」とは心理学用語。目の前にある空っぽの椅子に、思いのたけを語りたい誰かが座っていると想定して、言いたくても言えなかった何かを言うことによって精神を昇華させる療法らしい。この物語のキーワード。作者はこれを駆使して物語を構築した。でも、もうちょっとライムに踏み込んで追跡劇を演出して欲しかったと思うのはぼくだけかな…。満点にしようと思ったのだが、読後時が経つにつれて記憶が薄くなってしまったもんで(^^;;;。

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愛しき者はすべて去りゆく    GONE,BABY,GONE デニス・レヘイン 鎌田三平訳
角川文庫 平成13年9月25日 初版発行
 またまた、デニス・レヘイン(ルヘイン)に重いテーマの作品を突きつけられた。アンドリュー・ヴァクスやジョナサン・ケラーマンの登場以来、ミステリでは児童虐待が頻繁に取り上げられ、数多の刑事・探偵がそれこそ黄門様のごとく裁き続けてきた。題材が児童虐待だから、片方が善で片方が悪という非常に解りやすい勧善懲悪スタイル。もちろん、児童虐待は最低の犯罪であることは間違いないが、虐待の連鎖までも含めて悪の根源を何でもかんでもそこに求める気風があるように思えてならない。悪く言えば時流に乗った底の浅い作品もあって、少々食傷気味だったのも否定できないと思うのだ。

 しかし、さすがにレヘインは一味違った。根底に児童虐待を置いたまでは同じだが、更に進めて血の絆に疑問を投げかけているのだ。この現実的なアプローチは…、う〜ん、読む人によってはネタバレと感じるかも知れないが……、クレイグ・ホールデンあたりも描いたことがある方法で、手垢がついているとは言わないが、それほど目新しくもない。しかし、レヘインの手にかかると、こんな物語になってしまうのだ。「胸が張り裂けそうな…」なんて、気恥ずかしくて俄かには使えない言葉だけど、ボキャブラリの少ないぼくは、この物語にはこう表現するしかない。ホントに胸が張り裂けそうだった。

 世の中には善と悪しか存在しないのではない。善も悪も社会が生み出した単なる規範に過ぎず、しかも、時の権力が思いっきり利用し尽くして、歪めていることを誰だって知っている。そこに、暗黒小説と呼ばれる分野のひとつの活きる道があり(もちろん、活きる道のごく一部に過ぎないが…)、ハードボイルドは社会が考える善悪の隙間で紆余曲折する、一種「善悪隙間産業」的な趣もあったりするのだ。「血は水よりも濃い」などということわざを待つまでもなく、社会規範で考えれば親子は法律で守られた絶対的な関係である。レヘインは、そこに児童虐待が蔓延するの大きな原因があると考えたようだ。

 単なる誘拐事件と思われた少女失踪事件の裏に隠された驚くべき真実。ギャングと警官、ヤク中、アル中、一見善人、一見悪人が複雑に絡み合い、物語は静かに語られる。優秀な探偵は取り扱った事件に大きく影響されてしまうものだ。探偵のひとり、アンジーはこの事件に影響され、心中に持て余すほどの大きな欲求を抱えてしまう。呼び覚まされる母性。アンジーよお前も女だったか、あのアンジーにして…、などとは言わずもがな。物語は加速度を増して破局に走る。従うべきは法なのか理性なのか感情なのか。このカッコ悪くて最低の解決を見よ! 

 生半可じゃない痛みを残して最終ページを閉じた。読了して数日を経た今でも、胸の奥で燻りつづけている。少なくとも、単純に善悪の規範を信じきっているオメデタイ人にはこの小説は薦められない。

 かくして、私立探偵パトリック&アンジー=シリーズ第四作は、『闇よ、我が手を取りたまえ』と並ぶシリーズ代表作となった。傑作。ホントに痛い作家だぞ>デニス・レヘイン。

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カリフォルニアの炎    CALOFORNIA FIRE AND LIFE ドン・ウィンズロウ 東江一紀訳
角川文庫 平成13年9月25日 初版発行
 最近の作者の作品ほど、原文で読んでみたいと思わせる作品はない。翻訳でこれだけリズムが伝わるんだから、原文の心地よさは想像して余りある。単に訳者がうまいだけかもしれないんだけど、ともかく、明瞭簡潔軽い文体でリズムよく語られる。で、内容も軽いかというととんてもない。重い話を重厚な文体で描くのは誰だって思いつく。でも、それを、こんな文体でサラリと語ってしまうのが、作者のすごいところなのだ。

 いかにも作者らしい”カリフォルニアの青い空”的な健全さと、一度決めたら梃子でも動かない頑迷さがほどよく同居して、今回もウィンズロウのキャラは健在だ。甘さと紙一重のナイーヴさがまた心地よい。ニール・ケアリー=シリーズでは、師匠というか擬似父親のジョー・グレアムが語る探偵の奥義と、それを学ぶニール君の姿がとても新鮮だった。今回は、題材こそ「火」であるが、その奥深い薀蓄と学ぶ主人公の姿はニール君とダブるところもある。

 単純な火災保険の査定のはずが、あれよあれよとロシア・マフィアによる謀略へとストーリィは転がってゆく。ハラハラドキドキだ。エンターテイメント小説のあらゆる要素が無理なく詰め込まれた物語は、ある意味ケレン味たっぷりだから、ダメな人はとことんダメでしょうね。ぼくは『ボビーZ…』ほどの手管は感じなかった。もしかすると『ストリートキッズ』と並ぶ著者の代表作かもしれない。まあ、どっちにしろ、いかにもカリフォルニア的な浅い縦ノリの嫌いな人は敬遠した方が良さそうですね。

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シャドウ・キラー    KILLING THE SHADOWS  ヴァル・マクダーミド  森沢麻里訳
集英社文庫 2001年9月25日 第一刷
 英国サイコ・スリラーの旗手が、ケレン味たっぷりに思い切り作りこんだ。女性犯罪心理学者フィオナ・キャメロンを軸に、彼女が解決へと導くイギリスとスペインの三つの事件の顛末を描く。その中心となる事件が、イギリスのミステリ作家を狙った連続殺人だ。しかも、フィオナ自身が著名なミステリ作家と同居している。恋人のミステリ作家キット・マーティンに危機が迫る。さあ、たいへ〜ん…。ってわけで、フィオナ大活躍の巻なのだ。ラストにはアクションも待っていて、まずまず楽しませてもらえる。しかし、あまりと言えばあまりの物語。

 どの事件もフィオナ(ひとつは同僚だが)が耳新しい「地域プロファイリング」を使ってアレヨアレヨと犯人像を割り出してしまう。あんまり簡単過ぎてばかばかしいくらい。プロファイリング万能の物語。警察の無能ぶりは目を覆うばかり。あんまりだわな。無能の集まりである警察は、何かあればすぐにフィオナ女王様にお伺いを立てる。お伺いを立てないと動けないのだ。警察=エサを待つ犬。しかも、張り込みのプロとも思えない大ポカが物語のキーポイントだってんだから、笑ってしまう。もともと、『殺しの儀式』あたりにもプロファイリング万能の意識が見え隠れしていたんだけど、今回は特に顕著だ。従来の泥臭い捜査をする警官を見る目が冷たい。それでいて、プロファイリングの危さも道具にして物語に反映させている。小賢しいよねぇ。

 ネタに困るとインターネットの裏情報が登場する。見方によっては今日的で時代を良く捉えているんだけどそれが主情報になってしまうのはいただけない。作者も言い訳している通り、俄かに信じるべき事柄ではないのは解っているくせに、結局物語のキーポイントを「噂の真相」風なインターネットの裏情報から得ているフィオナ。ネット情報に右往左往。気にしていることについて悪い情報が入れば、誰だってゆらめくのは間違いないんだけど、あまりに軽すぎる。「地域プロファイリング」なんて聞いたこともない用語で煙に捲く。細かい説明もないから、これを読む限り胡散臭さ100%だよねぇ。前作の重厚さが嘘のよう。誰だって疑う、ミステリ作家殺人と脅迫状について、あんな状況にならなければ動けないなんて、無理やりに引っ張って物語を長くした作者の作為しか感じられない。

 女性だからか、ヴァル・マクダーミドの描く女性は強い性格が多い。この物語では特に顕著だ。フィオナだけでなく、セーラ・デュバルとかテリー・ファウラーとか。それに比べて、男どもはどいつもこいつも情けない。男は女性に潤いと癒しを与えるために存在しているのだ。一部で評判のフィオナとキットの関係も、対等なようでいて、じつはふたりでわがままを言い合っているだけの薄っぺらい関係にしか見えない。洞察が浅いのだ。ラストのアクションが示す通り強いのはフィオナ。もちろん、フィオナの物語だから。もちろん、男は女性に潤いと癒しを与えるために存在しているのだけれど…。

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1974 ジョーカー    NINETEEN SEVENTY-FOUR  デイヴィッド・ピース  酒井武志訳
ハヤカワ文庫 2001年7月15日 発行
 作家が自作に自信を持つのは良いことだと思う。でも、最高最高って、福永法源「法の華三法行」(こんな字だったよね…)じゃないんだから…。日本版の序文という、作品とは関係ないところでいらぬ反感を買わせるのはなぁ…。おかげでぼくは身構えて読み始めてしまった。で、読了後に最高だと思ったかというと、そうじゃないからこんな感想になってしまう。

 エルロイかぶれ、そう言われても仕方ない文体と捨てがたいノワールな雰囲気で、連続幼女殺人事件と巨悪の狭間で翻弄される新聞記者が描かれる。しかし、よくわからないのだ。何が良くわからないかというと、全てが朧でよくわからないのだ。大して読解力の無いぼくだから、還って恥さらしかもしれないけど、あまりに不親切で自己満足な小説、という印象しか残らなかった。

 連続幼女殺人事件はどうなったの? あいつが犯人で良いの? じゃあ、犯人と拘束された犯人の関係は? 巨悪の正体は何? 巨悪の警察の関係は? 巨悪と新聞社の関係は? 誰が誰を殺したの? なんで新聞記者のエディーが嵌められるの? なんで嵌められて釈放されるの? バリーの蒐集した資料はどう使われたの? それよりなにより、そもそも巨悪と連続幼女殺人事件の関係は何だったの? エディーと父親の関係は? まだまだ、山のように疑問が積み重なる。

 エルロイは、ノワール作家である前に稀代のミステリ作家なのだ。エルロイは紆余曲折して、LA四部作を生み出し、あの文体を生み出したのだ。四部作はどれもこれも、すばらしいミステリ作品だ。ミステリをきっちりと描出しつつ、人間に心の奥底に潜む暗黒を描き出したのだ。確かに捨てがたい雰囲気があるだけに残念。もっと客観的になるべきじゃないのかな。形だけ模倣してもダメだと思う。凄みが違う。格が違う。と言いつつ、続編の『1977 リッパー』を読んでいる。ノワールな雰囲気がとても良いのだが…。

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1977 リッパー    NINETEEN SEVENTY-SEVEN デイヴィッド・ピース 酒井武志訳
ハヤカワ文庫 2001年9月30日 発行
 前作とは別人に見える新聞記者ジャック・ホワイトヘッドと、これもまた別人に見える部長刑事ボブ・フレイザーの二人が主人公。前作は新聞記者エディー・ダンフォードの視点だったからなんだろうけど落差が激しすぎ。ジャックとボブが章ごとに入れ替わる一人称がわかりずらい、との意見があるようだがそんなことはない。斬新だった。しかし、ふたりとも似たような狂気系の苦悩で、この書き分けはまだまだかな。だからわかりにくいなんて言われる。どっちにも似たような幻影を出現させて、読者を煙に巻く相変わらずの自己満足小説に陥っているんだけど、これは難解なのか何なのか…。ふたりを分けた意味がよくわからない。

 全体としては前作よりも伝わってくる。展開もわかる。が、それも前作に比べたらで…。わからないことだらけは相変わらず。ぼくはこの本を読む資格がなかったのかも。前作もそうだけど、解説を読むといろいろあるようで…。作中に散りばめられているらしい暗喩とか引用とか、ぜ〜んぜんわからなかった。そういうのがわからないと語る資格が無いとか? まあ、確かに凡百の自称ノワールとは一線を画す仕上がりなのは認める。ストーリィも中途で、まだ先が続くのはサルでもわかる。でも、ぼくはこの人の小説作法が好きになれない。ご本人は気取ってブンガクを書いているつもりなのかな? 

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