天童荒太 1960年愛媛県生まれ。1986年『白の家族』で第13回野生時代新人文学賞、1993年『孤独の歌声』第6回日本サスペンス大賞優秀作、1996年『家族狩り』で第9回山本周五郎賞をそれぞれ受賞。


 凄みのある作家だ。エンターテメント小説の中では、特出していると思う。作家として、読者に伝えたいテーマがあるからだろう。下記著作は、どれもこれも子を持つ親には必読の啓蒙書である。


 
白の家族 中篇集 角川書店 1992.03.30   栗田教行名義
孤独の歌声 (3.5) 長編 新潮社 1994.01.15 新潮文庫 1997.03.01
家族狩り (4.0) 長編 新潮社 1995.11.20      
永遠の仔 上・下 (4.5) 長編 幻冬舎 1999.03.10    
あふれた愛 短編集 集英社 2000.11.10     

※『白の家族』は栗田教行名義。他は未確認なので未掲載。



本

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孤独の歌声    天童荒太
新潮文庫 1997年3月1日 発行
 文庫版で読んだ。平成6年に発行された「日本推理サスペンス大賞優秀作」を大幅に加筆・修正しての文庫化だ。残念ながらすでにハードカバーは手に入らなくなっている。悔しい。読み比べてみたかったというのが正直なところ。だってね・・・うますぎるのですよ。

 主な登場人物は3人。「おれ」と「わたし」と「彼」--それぞれの視点で物語が語られる。3人には三様のトラウマがある。共通するキーワードは孤独だが、それも三者三様。突き放してもなお求める心。精神を蝕んでゆく孤独。互いに惹かれあうか、反発しあうのか。孤独の三つの魂が交錯するラストに向かってひた走る。

 『家族狩り』『永遠の仔』でも感じたが、天童荒太という作家には鬼気迫るほどの凄みを感じてしまう。読者に伝えたい強烈なテーマを持っているからだろう。テーマと言っても一口で言うのは難しい。子供たちの葛藤、とでもいえばいいだろうか。子供VS大人の葛藤を軸に、子供たちの無垢な心に刻まれた傷とその影響を追い続ける作家だ。大人の価値観の枠に無理やり押し込められた子供たちの悲劇は大人の想像を絶するのだ。

 作者が声を大にして語っている子供たちの在り様が、この物語でも見える。なんでも自分の責任と感じる、常識とされる大人の言動が子供の心を傷つける、など。サイコホラーとしてはそれほど恐い作品ではないけれど、後に大傑作を生み出す作家が、トラウマが生み出す<孤独>について語った作品として読んで欲しいのだ。 

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家族狩り    天童荒太
新潮社 1995年11月20日 発行
 天童荒太。一読で大ファンになってしまった。この作家には誰もが持ち得なかった凄みを感じている。執拗な描写、ディテールの書きこみが物語に深みを与えて、大上段に振りかぶったテーマも教条的にならず、真正面から世の親たちに問題を突きつけてくる。どれが正しい答えか、全く五里霧中なのだが、こうやって考えさせることで啓蒙しているような印象すらある。家父長制が完全に崩壊した今、新しい家族の姿を本当に模索しなければならないのかもしれない。

 子供VS大人の図式は、当然学校と家庭において展開される。どちらも主体は大人である教師であり、親である。親の気分で振り回される子供たち、或いは過去に振り回された経験を持つ大人の視点で描かれる部分と、精一杯努力する、或いは努力してきたつもりの大人の視点で描かれる部分のバランスがうまく保たれている。一方的に走らない問題の捉え方が、その大きさを浮き彫りにしている。だが、作者が最終的には子供寄りなのは間違いないと思うのだが。。

 子供の登校拒否や家庭内暴力に悩んでいる家族が、その子供によって猟奇的に惨殺され、子供も自殺する事件が立て続けに二件起きる。名門高校の情けないが現実的な対応、民間の悩み電話相談の実態、公共の悩み相談の実態、生徒、教師。。。。そこらの教育書を読むよりも余程ためになる。これは最高の教育書といえるかもしれない。

 現実とリンクして、ぼくは恐ろしい小説体験を強いられた。読書中、次男が生まれ、父親と二人っきりの生活にストレスを感じた長男が喘息の発作を起こした。苦しむ息子を見て、ぼくは慌てふためき前後不覚に陥った。すでにこんな状態。この物語は、安穏と子供たちと接している親たちに警鐘を鳴らす啓蒙書だ。作者の最近作『永遠の仔』と共に、子供との接し方を見なおさせる契機を与えてくれた。感謝の気持ちすらある。
 少々作り過ぎた印象は拭い去れないのだけれど、この物語の怖さは大事にしなくちゃいけない。

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永遠の仔 上・下   天童荒太
幻冬舎 1999年3月10日 第一刷
 鳥肌が立つほどに凄い小説なのだけれど、作り過ぎた気がしてならない。下巻の2/3くらいまでは、永遠のベスト1だ、などと興奮気味に読み進んでいった。だが、終盤近くにいくつの謎が暴かれていくにつれ、徐々に熱が醒めてしまった。やはり作りすぎたのだと思う。『家族狩り』でも感じた印象と同じようなものだ。特に、序盤の二つの殺人は本当に必要だったかな、余計だったんじゃないかな、と。謎解きもミステリーとして読めば、少々弱い。それほど娯楽性に拘る必要なかったのに、などと思ってしまう。力技でねじ伏せてしまっても良かったのだ。

 感情の切り方を知っている。ある場所で石のように存在を消す方法を知っている。唐突だが、あちら側の人間だったから...。読むほどに頭をもたげて困った。自分は運が良かっただけなのだ。そうかもしれない。作中でも繰り返し吐かれるセリフが痛い。
 実は読書中、この作品が安息を与えてくれそうな予感を少しだけ感じていた。ところが、半覚醒状態だった自分のトラウマを、逆に呼び覚ます結果を招いてしまった。考えてみれば、当然の話かもしれない。この物語で描かれたのは、少年時代のトラウマが成人してからの人生にどう影響していくかだ。トラウマを顕在化させることで癒すことができる、といったフロイト的アプローチもなされるから、トラウマについても描写が丁寧で細かい。当然、登場人物たちの虐待をなぞる結果となり、自身に傷を持つ読者は彼らをも追体験してしまう。もちろん、虐待される側の視点で描かれた物語だから、こちら側の読者だって追体験することになるが、それ以上に、あちら側を知る人にはとってもしんどい読書となってしまうのだ。

 幼児虐待ならば、ヴァクスやケラーマンといった作家を思い浮かべる。だが、彼らの視点は、あくまでも虐待を憂える第三者であり、虐待される側からの視点ではない。知る限りでは唯一『ナイフ』の重松清。『ナイフ』は、イジメられる側の視点で描かれた傑作だが、彼にしても、テーマのひとつはイジメであって虐待ではない。この物語は虐待される側から描かれ、しかもその影響までをも追った稀有な小説ということになるだろうか。

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