重松 清 | 1963年岡山県生まれ。今最も期待している作家。1999年『エイジ』で山本周五郎賞を受賞。2001年『ビタミンF』で第124回直木賞を受賞。 |
ハードボイルドでも冒険小説でもないエンターテイメント系の作家。地に足がついた作風とでも言おうか。地味ながらも、イジメや家族をテーマとした作品を発表し続けている。 ぼくと同世代の方には『ビフォア・ラン』とか『幼な子われらに生まれ』がお薦め。 それにしても、2001・2002年の多作ぶりは……。 |
ビフォア・ラン (3.5) | 長編 | KKベストセラーズ | 1991.08.05 | 幻冬舎文庫 | 1998.10.25 |
私が嫌いな私 | 長編 | 太田出版 | 1992.08.15 | ||
四十回のまばたき | 長編 | 角川書店 | 1993.11.30 | 幻冬舎文庫 | 2000.08.04 |
見張り塔からずっと (3.5) | 短編集 | 角川書店 | 1995.01.15 | 新潮文庫 | 1999.09.01 |
舞姫通信 (2.5) | 長編 | 新潮社 | 1995.09.20 | 新潮文庫 | 1999.04.01 |
幼な子われらに生まれ (4.0) | 長編 | 角川書店 | 1996.07.30 | 幻冬舎文庫 | 1999.08.25 |
ナイフ (4.0) | 短編集 | 新潮社 | 1997.11.20 | 新潮文庫 | 2000.06.28 |
定年ゴジラ (4.0) | 連作 | 講談社 | 1998.03.25 | 講談社文庫 | 2001.02.01 |
エイジ (3.5) | 長編 | 朝日新聞社 新聞掲載版 |
1999.02.01 2000.11.01 |
朝日文庫 | 2001.08.01 |
半パン・デイズ (4.5) | 連作 | 講談社 | 1999.11.11 | 講談社文庫 | 2002.11.15 |
日曜日の夕刊 (4.0) | 短編集 | 毎日新聞社 | 1999.11.25 | 新潮文庫 | 2002.07.01 |
カカシの夏休み | 中編集 | 文藝春秋 | 2000.05.10 | ||
ビタミンF | 短編集 | 新潮社 | 2000.08.20 | ||
さつき断景 | 長編 | 祥伝社 | 2000.11.10 | ||
リビング | 短編集 | 中央公論新社 | 2000.12.01 | ||
隣人 | ルポ | 講談社 | 2001.02.01 | ||
口笛吹いて | 短編集 | 文藝春秋 | 2001.04.01 | ||
セカンド・ライン | 随筆 | 朝日新聞社 | 2001.11.01 | ||
流星ワゴン | 長編 | 講談社 | 2002.02.08 | ||
熱球 | 長編 | 徳間書店 | 2002.03.31 | ||
重松清 見よう、聞こう、書こう。 | ? | KTC中央出版 | 2002.06.23 | ||
かっぽん屋 | 短編集 | 角川文庫 | 2002.06.25 | ||
小さき者へ | 短編集 | 毎日新聞社 | 2002.10.20 | ||
きよしこ | 短編集 | 新潮社 | 2002.11.25 | ||
トワイライト | 長編 | 文藝春秋 | 2002.12.15 |
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北野武監督『キッズ・リターン』のラスト。主人公ふたりが自転車にまたがって校庭を走る。やがてひとりが言う−「まだ、はじまってもいない」。正確なセリフは忘れてしまったが、確かに主人公のひとりにこのようなことを言わせた。 『ビフォア・ラン』読後真っ先に思い出したのはそのセリフだった。正直言えば、「まだ、はじまってもいない」のふてぶてしいまでのバイタリティも感じられず、全体的に食い足りない感じもした。よくわからない箇所もあった。だが、それすらもあの頃のもどかしさや、肌の微妙な感覚を表現しているようで好感が持ててしまった。あの頃の自分にどっぷりと浸らせてもらった。 ぼくより若干若い。「トランジスタ・ラジオ」は大学時代だった。 そして、忘れもしない1980年12月。ぼくが本郷で宛名書きのアルバイトに精を出している夕刻、あのニュースがラジオから飛び込んできた。ジョン・レノン暗殺。あまりのことにバイトが手につかなくなり、適当な所で切り上げてさせてもらった。 下宿に飛んで返り、半ばうつつで何度も何度も事件を反芻した。翌朝、満足に眠れぬまま駅の売店に走り、目に入る新聞を全部買った。スポーツ紙はほぼ全紙が一面トップ。その中で唯一、東京中日スポーツだけが巨人の外国人選手の話題だった、確か。。トウチュウなんかニ度と買うもんか、と心に誓ったっけ。。。こうして1980年はぼくにとっても忘れられない年になった。 それから何度も引越しを繰り返し、そのたびに黄ばんでいく新聞。色あせた新聞を見るたびに、自分が少しずつとあの頃から遠い存在になっていくような気がした。そんな思いがピークに達した(らしい?)9年前、引越しの時に衝動的に捨ててしまった。今思えばもったいないことをしたと思うが、反面それで良かったような気もしている。衝撃は風化し、思い出は色あせていくものだが、実際に色のあせた新聞を見るのはあまり気分の良いものではなかったのだ。『スターティングオーヴァー』を聞けばあの頃に帰れる。今でもまだそう思っている。 これ程に『ビフォア・ラン』は、ぼくらの世代にとっては強力な胸キュン本なのだ。気がつけばオヤジをセンチにさせている。。 |
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作者初期の中篇が三篇収められた作品集だ。表題作はない。「見張り塔から ずっと」 このタイトルの出展はボブ・ディランかと思ったら、もっとその先があった。あのゲーテだそうだ。どれもこれも、作者が見張り塔からずっと観察した人間たちの痛々しい姿が収められている。だが、これは誤解され易いかもしれない。見張り塔から見ている人は、常に傍観者だからだ。でも、どれだけの他人の人生に傍観者以外で接することができようか。 最終収録作の「陽だまりの猫」の主人公に、ちょっとだけ前向きな姿勢が見える程度で、残る「カラス」「扉を開けて」ともにものすごく暗く救いようがない。かつて読んだ作者の作品では、『舞姫通信』に匹敵する暗さだ。 バブル崩壊後の大規模分譲マンションを舞台に陰湿な大人のいじめを描いた「カラス」。「扉を開けて」は幼くして子供を無くした夫婦が狂気に落ちるさまを、「陽だまりの猫」は自分を物語の主人公にして、別人格として扱うことでしか正気を保てない女性を描く。共通項は狂気だろうか。追い詰める狂気、追い詰められる狂気。他人を追い詰めるがゆえの狂気。微妙な心のバランス。 中でも「カラス」が一番気に入った。バブルが崩壊して価値の下がるマンション。予定通り開発は行われず、鉄道延長計画も棚上げされた。そこに他の住人よりも1,000万円も安い価格で住戸を買った住人がやってくる。些細なことをきっかけとしていじめがはじまる。いじめがエスカレートするに従って活き活きと綺麗になる妻。他人の不幸を糧に。この作品はすごい。 「扉を開けて」は、子を持つ親として読むのがとてもつらい。先にあちら側へ行った妻をなだめながら、徐々に自分も引き込まれていく夫。ホラー特集で書かれた作品だそうだから、適度に怖いのだけれど、ちょっと首を傾げるところもあった。 「陽だまりの猫」 これはいまいち、かな。設定にリアリティがない。いまどきこんな女性がいるなんて俄かには信じられない。姑のあまりの仕打ち。単純な悪意とは言い切れないが、かなりありがち。そういう意味では新鮮味が感じられない。ただし、嫁と姑と息子(夫)を巡る会話と描写はぞっとさせられる。同じつりあがった目…。 作者の人間観察の鋭さを再確認させる初期短編集。現在のアプローチとは少々違った、サイコな感覚が重松作品としては新鮮だった。 |
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ある女子高が舞台。その女子高には約10年前、校舎から身を投げて自殺した生徒がいた。後輩たちは、自殺した生徒を舞姫と呼び、彼女を賛美する文書が毎年生徒に回されるようになる。「舞姫通信」-文書はそう呼ばれた。物語はこの高校に赴任してきた新任教師の一人称で語られる。。彼にもトラウマがあった。。と物語は進んでいくのだが。。 重すぎた。 この小説を否定する気は毛頭ないが、とにかく重過ぎた。物語の根幹にあるのが「人は死ぬ自由はあるのか?」。平たく言えば自殺は許されるのか。。それについての作者の答えが、最終ページ近くに書かれている教師による「舞姫通信」だろう。これに集約されるのだと思う。それにしてもテーマが重い。登場人物が重い。重い。重い。作者自身にも未消化が感じられる。たぶん、ぼくの読解力が足りないんだと思うけど。。 登場人物一人一人について言えば不満だらけだし、物語全体を通してどうも歯切れが悪いような気がする。ストレートに伝わらない。家族にこだわる重松清がここにも居るし、それぞれの痛みは伝わってくる。でも、やっぱりそれぞれが未消化な気がする。。自殺を巡る議論は綿密に取材され、傍系のストーリーもそれなりにあり、練りに練っただけあって構成もしっかりしている。非常にセンスも良いと思うんだが。。。そんな各論に終始してはいけないんだと思うのだが。。 |
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これは傑作だ。 『舞姫通信』の重たい余韻の冷めぬままに読み初め、遅読のぼくがたった一日で読みきってしまった。ハマッた。 主人公は37歳。サラリーマン。二児の父親。妻が妊娠。。この設定からして既に条件は整えられていた。ベタベタに感情移入してしまったのだ。人生の逢魔が時を迎え、それをなんとか乗り越えようとする。悪戦苦闘が胸に響く。切実な涙を誘う。これは魂と家族の再生の物語なのだ。作者が人間を見つめる目は常に冷静で、決して感情に流されないから、一筋縄ではいかないほろ苦い再生となる。が、とっても暖かい。読了後、胸にじんわりとしみ入ってくる暖かさに包まれた。 家族。重松清が追求し続けるテーマ。ここで語られるのは擬似家族といってもいい。親子って何だろう。血のつながりって何だろう。真っ向から取り組んでいる。ぼくらの世代の家族関係を、ぼくらの世代の雰囲気でここまで描ききった小説には出会ったことがない。普遍のテーマには違いないのだが、どうしても「ぼくらの年代」と括って思い入れしたくなってしまう。感情にフィットするのだ。 女神のアンジーはちょっと都合良すぎる気もしたが、現代にはこんな形の癒しもある。アンジーのセリフには、主人公だけじゃなくてぼくだって目からうろこが落ちた気がした。 今後も重松清を読みつづけたい。同時代にこの作家を持てたことが本当にうれしい。 |
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「いじめ」をテーマにした短編集。 収録作品は「ワニとハブとひょうたん池で」「ナイフ」「キャッチボール日和」「エビスくん」「ビタースィート・ホーム」。5編の全てが一人称で語られる。それぞれ順に、「いじめられている少女」「いじめられている子供の父親」「いじめられている少年の幼馴染の少女」「いじめられている少年」「ごく普通の家庭の父親(いじめ対象は教師)」の視点。 つくづく最終収録作品が「ビタースィート・ホーム」で良かったと思った。「ビタースィート・ホーム」の読後感がそれまでの凄惨な印象をほろ苦さに変えてくれる。 しかし、、この作者のなんと達者なことよ。地に足がついているというか、マイペースというか。。派手な小説ばかりがもてはやされる昨今、これ程地味で、しかも心を打つ作品を書きつづけているなんてほとんど奇跡に近いんじゃないだろうか? この人の作品で流れる涙を大事にしたい。重松清の本を読んで思ったことを忘れないで生きていきたい。 いじめかぁ・・・・中学時代のあまり思い出したくないことを思い出してしまった。この作品はいじめる側、いじめられる側の本質を突いている。両者の微妙な心の動き、いじめられる側の妙なプライド、親の間違った反応。ただし、このプライドは何も思春期に限ったことではない。いつ、どこででもそういう状況に陥ったときは当然の反応として頭をもたげてくる。親は子供の自尊心を理解しなくちゃならないってことか。わかっちゃいるけど、、なんだろうね。 特に良かったのは「キャッチボール日和」と「ビタースィート・ホーム」。いづれも作為的でなく、与える感動は心の奥底の一番深いところに向かっているような気がする。 重複するが同時代に重松清を持つことが出来て本当に良かった。 そうそう、この作品は「第14回坪田譲治文学賞」を受賞した。地元岡山の文学賞。どんどん賞を取ってくれ>重松さん。 |
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図書館の存在はやはり大きいのだ。書店ならまず手に取ることもなかっただろう。1800円も出すなら他に買いたい本がたくさんあるのだ。それが図書館を利用しているお陰でこうして読めた。そしてこんな大きな拾い物になる。これが図書館利用の醍醐味なのだろうな。ありがたい。 第一印象は、「なんて達者な書き手だ!」。プロフィールを見たら1963年生まれ。若いじゃないか。。。若い重松清が定年を迎えた企業戦士たちの老後を、ニュータウン・家族・人生という調味料で料理しながら見つめていく。実に暖かい。身につまされることも多く、別にどうということの無い描写に涙が溢れたりする。それでいてユーモアもたっぷりだから泣き笑い。素直な気持ちで読んで欲しいのだ。 老眼は40代からはじまる人も多いんだよ、重松さん。ちょっとひっかかりながらも最終章「家族写真」を読了。実に幸せな気分にさせてもらえた。読了後幸せな気分になる、というのはぼくの読書基準では非常に重要なことなのだ。ちょっと書きこみ過ぎかな、と思わせるところもあるが素直に感動させてもらった。 そう言えば家族写真って撮ったことなかったなぁ、、初詣に行く前マンションのエントランスで撮ってみようかな。 |
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新聞の書籍広告では「少年文学の傑作」などとうたっていた。エッ!? どこが「少年文学」なの? 少なくとも中学生向けの本じゃない。中学生を描いてはいるが、だからといって今の中学生が読む本ではなく、これは彼らの親たちが読むべき本なのだ。 ぼくは想像するしか方法がない。中学生たちの思考回路などは、想像するしかないのだ。だが、この本を読んで、ひとつわかったことがある。もちろん、重松清さんの意見が全て正しいわけではないが、これから子供たちが成長して難しい年代になっても絶対に覚えておくべきことをひとつ学んだ。それは、かれらは「特別な存在」ではないということだ。大人たちはあの年頃の子供たちをいろんな枠組みで括りたがる。だが、決して括ってはいけない。特に年代的なものでは絶対に。 エイジくん。 大人だってキレそうになることがあるんだ。頭の中の特殊警棒でメッタ打ちにしていることがある。実際にキレてる人もいるしね。君たちと同じなんだ。満員電車の中で、仕事で訪問した客先で、疲れて帰ってきた家庭で……。君たちがキレたからと言って特別視してはいけないな。 少なくともぼくは、息子たちが君くらいの年齢になったとき、息子たちを信頼して悠然と構えているように努力してみるつもりだ。 「ふれあい」だの「コミュニケーション」だのをうそ臭いと感じる君たちの感覚は間違っていないと思う。だけどそこからもう一歩進んで考えて欲しい。そんなうそ臭い言葉でしか表現できない不器用な大人たちに、君たちの方から救いの手を差し伸べることはできないだろうか。大人たちは戸惑っている。君たちの大切なものが何なのか把握できていない。だから、君たちの方から今より一歩でもいいから、大人たちに近づいてみて欲しい。そしたら、別の何かが見えてくるかもしれないから…。 |
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12編の短編をまとめた作品集である。テーマはタイトル通り、「日曜日の夕刻」だ。一週間から日曜日を選び出し、しかも夕刻という人恋しい時間帯に目をつけた作者はすばらしい人間観察眼を持っている。描かれるのはいずれも足掻く人々。愛情豊かに細やかに描いている。これぞ重松ワールドだ。 自分に小学生の息子がいるせいか「サマーキャンプへようこそ」とか「卒業ホームラン」あたりが気に入った。すぐに感情移入できてしまう。当然父親に…ね。なんと感情細やかで木目の細かい物語だろうか。父と子の感情の揺らめきが、風になびく絹のような心の襞が、読む者の心の刺をそっと撫でる。 父子物語の他にも、「さかあがりの神様」「後藤を待ちながら」「柑橘系パパ」「チマ男とガサ子」など秀作が目白押し。どれもこれも、溢れんばかりの優しさに満ちている。中でも最高傑作は、「カーネーション」だろうか。たった22ページの作品に凝縮された物語の濃いこと濃いこと。電車の網棚に置かれた1本のカーネーションをモチーフにこれだけの物語が書けてしまうなんて…。ストーリィを生かす抜群の構成が光る。 ご存知のように、日曜日には夕刊が無い。このタイトルの指し示すテーマは、普遍的で深遠で人生の機微に満ち溢れている。日曜日の黄昏時、ぽっかりと空いたエアポケットのようなこの時間に人はさまざまなことを思う。去来するのは、家族であろうか、それとも恋人や友人であろうか。それはさながら日曜日に届けられた夕刊のようにぼくらの心に届く。この作品集は、作者がそれらをまとめて読者へ贈り届ける、「日曜日の夕刊」なのである。 |
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重松清は現代の作家の中で、最も短編のうまい作家に数え上げて良さそうだ。ナニを今更……(^^;;;。ともかく読んで欲しい。絶品なのである。この物語は、短編集ではなく優れた短編を集めて連作の形をとっている。もちろん、ひとつひとつは絶品の短編小説である。だが、全9編を読み終えた感想は大河小説のそれに匹敵する、といってはいいすぎかな……。いい過ぎだろうな…。 主人公は、東京から岡山(たぶん)に転校してきた小学生のヒロシ。ごく平凡なようでいて実は波乱万丈の小学校生活6年間が、ヒロシの目を通して一人称で描かれる。テーマは家族だったり友達だったり死だったりとさまざまだが、根幹にあるのはヒロシの成長なのだ。時は1970年代。天池真理あり、大阪万博あり、オイルショックあり、と当時の世相や流行を巧みに盛り込んで、臨場感を煽りながら胸キュン物語は進む。 9編の連作短編は、ヒロシの成長に合わせ、それぞれの風景を9場面切り取って鮮やかに描かれている。子供の気持ち、子供から見た親たちの姿、垣間見える大人の世界。どれもがみずみずしく、淡く切ない。青春前期−作者の言葉を借りれば、「みどりの日々」のなんと甘美なことか。ただし、大甘の物語ではない。垣間見る理不尽な大人の世界は、現実的で時に残酷である。成長に合わせ、いつしか子供たちの世界にも不条理が忍び寄る。子供たちの世界に大人の世界の縮図を見せつけるなんて、やっぱり作者の目は確かなのだ。 第一章で東京から引っ越してきたヒロシは岡山弁が使えない。もちろん読者であるぼくも。それが、章を追うごとに岡山弁が心地よくなってくる。抵抗感がなくなる。小学生に感情移入してしまい、ヒロシとともに岡山弁で考えるようになってしまう。涙腺がユルユルになって、ヒロシの代わりに目頭が熱くなってしまう。そして小学校卒業の最終章「みどりの日々」、平凡だけど波乱万丈の小学校時代を過ごしたヒロシらに、心からの祝福と拍手と激励を贈った。良い小説を読ませてもらった。 ところで主人公ヒロシは、少年重松清そのものでしょうね。名前も似てるし。過去へ回帰し己の原点を確認した作者は、これからどこへ向かっていくのでしょうか。今後が益々楽しみになった。 |