佐藤賢一 1968年山形県生まれ。東北大学大学院で中世ヨーロッパ史を専攻。1993年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞を、1999年『王妃の離婚』で第121回直木賞を受賞。


 中世ヨーロッパを舞台にした小説で、歴史エンターテンメント小説に新分野を開拓した。この分野のパイオニアである。確固とした知識に裏打ちされた小説群は無類のおもしろさだ。
 だが、しかし……、いきなりの直木賞はちと早いぞ!


ジャガーになった男 (3.5) 長編 集英社 1994.01.25 集英社文庫 1997.11.25
傭兵ピエール 長編 集英社 1996.02.29 集英社文庫 1999.02.25
赤目-ジャックリーの乱 (3.0) 長編 マガジンハウス 1998.03.19 集英社文庫 2001.05.25
双頭の鷲 (4.5) 長編 新潮社 1999.01.30 新潮文庫  2001.07.01
王妃の離婚 (4.5) 長編 集英社 1999.02.28 集英社文庫 2002.05.25
カエサルを撃て 長編 中央公論新社 1999.09.07 C・NOVELS 2002.02.25
カルチェ・ラタン (2.5) 長編 集英社 2000.05.10      
二人のガスコン 長編 講談社 2001.01.18         
ダルタニャンの生涯 忠実の三銃士   岩波新書 2002.02         

※『ジャガーになった男』は、文庫化時大幅な加筆・改稿が行われた。
※『赤目−ジャックリーの乱』は『赤目のジャック』と改題して文庫化。


本

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ジャガーになった男    佐藤賢一
集英社文庫 1997年11月25日 第一刷
 遠くスペインに日本という意味のスペイン語「ハポン」姓を名乗る人々がいることは知っていた。教えてくれたのは、逢坂剛さんの短編「ハポン追跡」。岡坂神策が活躍する逢坂さんらしい名品だが、この物語だって負けてはいない。題材は同じく伊達政宗が派遣した支倉常長遣欧使節。一行のうち、ひとりイスパニアに残った斎藤寅吉が繰り広げる波乱万丈の大冒険物語だ。

 この冒険はなんともスケールがでっかい。17世紀を舞台にした作者のイマジネーションはイスパニアに留まらず、アメリカ大陸にまで広がるのだ。戦いあり、恋あり、人生、はたまた己への哲学的考察あり・・・。煩悩の主人公寅吉がひらいた悟りは、あたり前過ぎるほどの真実ながら胸を打つだろう。

 若さゆえの気負いと取ればなんてことはないのだが、縦横無尽の作者の筆は突っ走りがちで、やはり饒舌に過ぎた印象が強い。でも、なんせ発表は作者25歳の時。後に加筆しての文庫化とはいえ、それでも29歳くらいなのだ。果てまで突っ走っても余裕で帰って来れるのだな。うまくすれば三往復くらいはできるかも(^。^;)。個々の心の綾はそんなに説明しなくても良いのだ。物語の展開には強引さが目立つ。加えて、どうも作者は女性に対してひとつの偶像があるようで、その雛形からぬけられないようだ・・・。とまあ、そんなこんなを差し引いても、作者の将来には期待して余りある。小さくまとまらず、壮大なスケールの物語を書きつづけて欲しいと願うのである。

 この作品は1993年に第六回小説すばる新人賞を受賞している。文庫化に際し、寅吉の一人称を三人称に変えるなど、大幅に加筆された。この三人称化も少々問題があるかな。三人称に変えた意図がよくわからない。せっかくの三人称なのに、場面転換など一人称小説を読んでいるかのようだった。三人称をうまく使えば、インディオたちとの駆け引きももっとうまく描写できたのではないだろうか。

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赤目 ジャックリーの乱    佐藤賢一
マガジンハウス 1998年3月19日 第一刷
 きっと誰の中にもあるんだろう、赤目。万物の霊長などと踏ん反り返っていても、人間とて所詮本能の生き物。動物なのだな。そのあたり、狂言回しであるフレデリは悩むのだ。だが、赤目の魔力は非常に強い。運命に翻弄され、九死に一生を得たフレデリは、さてどうなったか。自分の中の赤目を飼いならすのは容易ではない。特に戦乱の世では・・・。

 物語は14世紀末。北フランス。後に百年戦争と呼ばれる戦火の最中。一時の端境期に解雇された傭兵たちが村々で略奪、強姦、殺戮の限りを尽くす。武器を手に立ちあがる農民たち。だが、標的は傭兵たちではなく、殺戮を指をくわえて見ていた時の貴族たちだった。蜂起した農民たちがリーダーと仰ぐのが赤目のジャック。その側近と目されたフレデリを狂言回しに物語が語られる。

 飽くことなく綴られる暴力。胸の悪くなるような描写の連続だ。サド・・マゾ・・・。こうまでして描かれた世界は、ラストあたりまでは荒涼とした印象しか残さない。生を謳歌する人々を描いてきた作者だが、一転心に潜む暗黒面を描いて見せた。あまりに救いが無いので、ラストも勘違いしてしまいそうだった。そうだな。これは生を謳歌する人間たちの物語なのだな。でも・・・・バイタリティ溢れる人間たちの生のドラマには違いないのだが、他の作品に比べて物語の厚みに乏しく、しかも駆け足のような印象を残したのがとっても残念であった。もうちょっとジャックにまつわるエピソードを積み重ねて欲しかった気もするのだ。。。

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双頭の鷲   佐藤賢一
新潮社 1999年1月30日 発行
 「フランス最高の名将デュ・ゲクランの破天荒な生涯を描く・・・」などと帯に書いてあるから、そのままに受け取って読んだ。でも、読後の印象はちょっと違うぞ。確かにベルトラン・デュ・ゲクランを中心に描かれてはいるが、型どおりの主人公とは言えないんじゃないかしら。あまりに消化不良が多過ぎるのである。主人公が、いつの間にか捕虜に取られていたり、いつの間にか愛人を作っていたり・・・一つや二つならいいのだが、読者の知らないところで事件が起こり過ぎるのだ。他の登場人物の口を借りてベルトランを描写し、人物を浮き彫りにするのは常套手段。だからといって、細部を飛ばし過ぎではないか。ベルトランは便宜的な主人公に過ぎないのでは? などと言ってみたくなる。では、14世紀フランスを舞台にした英雄群像とも言えるこの物語の真の主人公は何であろうか? 

 時は14世紀フランス。イングランドとの間に続く百年戦争の真っ只中である。群雄割拠の時代にあって、軍神と崇められたベルトラン・デュ・ゲクランを中心に、フランス国王シャルル五世、イングランドの黒太子エドワード、イングランドのチャンドス将軍、戦の天才グライー・・・etc。強烈な個性を持った人物たちが雨あられのごとく登場する。シャルル五世と黒太子エドワード、ベルトランとグライー、この好対照が暗示的だ。だが、時代の波にのまれ、運命に翻弄される人々にあっては勝者も敗者もないのだ。確かにベルトランは勝者であったが、何が残ったか。シャルル五世はどうであったか。歴史の狭間を縦横なイマジネーションで埋め尽くす作者の筆は、淡々として衒いがない。歴史小説なのだから、時代が主人公などと言っては叱られそうだが、そうとしか言えない出来ばえなのだ。取りようによっては誉め言葉とは言えないかもしれない。語り手である作者が傍観者的視点に陥ることなく、熱い思い入れとともに謳い上げた人物を読みたかったのも事実なのである。『王妃の離婚』の弁護士フランソワのような。。

 否定的な感想ばかり先立ってしまったが、正直なところ物語は物凄くおもしろいのだ。休日には滅多に本を開かないぼくが、暇を見つけては読書に勤しんだ。とにかくおもしろいのだ。多少、時制をつかみ難いのも難点の一つなのだけれど、あ、また・・・。やっぱりちょっと食い足りないかなあ。。それでも(4.5)を付けてしまった(^。^;)。

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王妃の離婚    佐藤賢一
集英社 1999年2月28日 第一刷
 驚きの一冊。抜群のおもしろさ。読書の楽しみを存分に味わわせてくれる絶品のエンターテイメントだ。15世紀フランスを舞台に、驚くばかりの学識を駆使して、フランス国王ルイ12世と王妃ジャンヌの離婚にまつわるドラマを、ジャンヌの弁護士フランソワを通して描ききっている。作者は東北大学の大学院で中世ヨーロッパ史を修めた方だそうだから出自からして違うのだな。

 日本のエルモア・レナードと言っても過言ではなさそうな独特の文体がおもしろい。時折り、作者の意識のみが先走ったとしか思えない文章も見うけられたが、裁判を舞台劇に見たてたかのような描出に、この独特の文体が被さると胸の高鳴りは抑えられない。ぼくらは喧しい傍聴人と化し、裁判所の外で弁護士フランソワを待ち構える群集の一人となっているのだ。熱い一体感は鳥肌が立つほどだ。国王と王妃の離婚裁判を縦軸に、青年時代の一世一代の恋とその結末に折り合いを付けられずにいる弁護士フランソワの姿が横軸に描かれ、物語の奥行きが一層深まる。涙無しには読めないであろうラストに向けて、周到に驚きの事実が明かされ物語が積み上げられるのだ。

 だが、多少の注文もある。せっかくの驚愕の事実にもう少し重みを付けて欲しかった気もするし、そうなると構成も少し甘かったような感じもしている。女性の描き方が、いかにも男性側からといったつくりでこれも甘かったかもしれない。でも、それも手放しに誉めたくないから粗探ししただけ(^。^;)。作者の将来にはとても期待している。現代劇を読んでみたい気もするのだが。

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カルチェ・ラタン    佐藤賢一
集英社 2000年5月10日 第1刷発行
 時は、ルネサンス。技術・芸術の革新は人心の革新にはつながらないのだな。現代の女性たちが読んだら眉を顰めるような女性蔑視の、通俗的女性観がいろんなヤツからこれでもかと吐かれる。当時のヨーロッパの知識階級が抱える問題よりも何よりもここらへんがとっても気になってしまった。別に女性におもねるわけではないんだけど、封建時代という設定を考えても、これはあまりにひど過ぎやしませんか? 博学な作者のことだから、根拠のないことではないと思うのだが、これほど通俗的な女性観を披露されても苦笑するのみなのだ。あの時代はホントにそういう女性観が一般的だったとしても、そんなごく一般的なことをわざわざ小説にする理由がわからない。愛情も感じられないしね。新時代の萌芽はわかるんだけど…。

 後に大立物となる青臭い泣き虫ドニ・クルパンの一人称で書かれた物語は、本人の漫画チックな造型と大時代的な小説の作りがミスマッチでとても居心地が悪かった。純情ドニの「筆おろし物語」、あるいは佐藤版『イ(ヰ)タ・セクスアリス』と読めばね。あ、そういう小説なのか…。ストーリィもまとまりがない。ドタバタに終始して、最後まで何を言いたいのかわからなかった。ま、単なる青春小説として読めばいいんでしょうね。それも「筆おろし物語」として…。まさか、女は何度も生き返る、じゃあないよね。ナニを今更……。

 う〜ん、この人成長してませんねぇ…。封建社会だからってこんな風にしか女性たちを描けないのは致命的だと思うんだけど…。なんというか…底が浅いような気がしてきてしまった。どんな時代だって、必死に生きる女性たちはいるわけで、彼女らが佐藤さん的性格の女性だけだったとは思えないのです。もっと闊達として、愛情豊かで、知性的で、哀しみをたたえて、しかもしたたかに生き抜いた女性たちが居たはずと思うんだけど……。したたかさもこの人が描くと小狡賢く見えてしまう。温かみに欠ける? この女性描写の浅さは、作者の女性経験と直結してるのかな? そんな穿った見方までしたくなる。

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