心では重すぎる    大沢在昌
文藝春秋 平成12年11月30日 第一刷
 大沢さんにとって佐久間公というキャラクターは、逢坂剛さんにとっての岡坂神策のような存在なのかも知れない。或いはそれ以上か。大沢在昌さんは若いときに書いた作品のキャラを、10年を経て再登場させた。キャラ不足などではなくて、意図的なものだと思っている。その線から、作者なりに自身の老いに向き合って決着をつけたかったのかな、と『雪蛍』読了後に邪推した読者も多かったと思う。その『雪蛍』に続くのがこの物語で、読了後更にその思いが強くなった。自らの立ち位置。佐久間公が探偵であることを思索し、探偵であることに拘り続ける姿は、そっくりそのまま大沢在昌さんが作家であることの拘りと読み替えられそうだ。

 作者は新宿鮫シリーズでも鮫島に警官であることを思索させている。最近のローレンス・ブロックのスカダー物のような、ある意味老境小説のような分野に踏み込むにはまだまだ若いと思うが、本人はすでに作家生活20年の大ベテランで、意識としては近いモノがあるような気もする。鮫島よりも佐久間公が作者の等身大に近いと思うのは、佐久間公の年輪の重ね方を見ての類推だ。佐久間公は作者とほとんど同じように年齢を重ねている。作者の心理とシンクロしているように見えるのだ。

 この物語を読むと、作者のハードボイルド小説観のようなものも垣間見られて興味深い。作中、元少年誌編集長が佐久間を「優秀なインタビュアーだ」と紹介する。佐久間自身も人に聞いて回るのが仕事だと言う。ぼくの掲示板で、網友のまささんが教えてくれた、矢作俊彦のエピソードを思い出した。まささんによれば、矢作俊彦はハードボイルド小説家と呼ばれることを極端に嫌うそうだ。では、矢作俊彦は自身の小説を何と称するか。「インタビュー小説」と呼ぶのだそうだ。

 別に矢作さんが珍しいわけじゃなくて、こんな考え方は古くからあった。確かに探偵の作業は関係者の迷惑を顧みずにインタビューして回って積み上げた事実から、真実を見つけ出す作業とも考えられる。しかし、失踪人探しと限って言えば、事件性がなければ他人の人生に土足で踏み込むことにもなりかねず、さまざまな軋轢が生じかねない。この物語では、そこらあたりに深く思索を重ねていてかなり読ませる。しかも、この思索は一所に留まらない。マンガ、新興宗教、薬物、現代の若者たちの心理、渋谷、SMなどなど現代社会学を講義するかのごとく展開する。いまどきの若者とのギャップを大沢流に表現すると「心では重すぎる」になるのかな。心に比べれば体なんて軽いもんさ。やっぱり作者と重なる。

 物語自体は、単純なストーリィを複雑に語る最近の大沢在昌さんの真骨頂で、一見複雑怪奇に見せるが実は簡単明快だったりする。この多面性も作者が語りたかったことかな。でも、キーワードとなる女子高生・錦織令にちょっと無理があるような気がする。じっくり読むと、佐久間の推理のほころびも散見される。で、その推理に基づいた佐久間の行動も無理があるように見える。どうでもいいかな…、ぼくにはキッチリと伝わったから。ともかく、当代を代表するハードボイルド作家が鋭敏な時代感覚で現代を切り取った、正統派ハードボイルドであることは間違いない。

国内作家INDEXへ

溺れる魚    戸梶圭太
新潮社 1999年11月20日 発行
 そこここで評判になっている戸梶圭太さん。2001年春には映画『溺れる魚』も公開されて、近刊『なぎら☆ツイスイター』はかなりの好評らしい。一気にブレイク? 乗り遅れる前にと、未読のぼくが初めて手に取った戸梶作品がこの『溺れる魚』。順番からいけば、コナリーの『バッドラック・ムーン』なんだけど、こっちの方が印象が深かったもんで。

 しかし、戸梶圭太さん、往時の筒井康隆さんを彷彿とさせますね。壊れ方が半端じゃない。特徴的なのが擬音の使い方と表記なんだけど、こんな使い方をする作家は筒井さんしか知らない。それと句点「。」を使わず、「殺してやる殺してやる殺してやる」と表記する。グラインドします。嗅覚に訴えてくる悪党がまた斬新で、その描写のグロいこと。自由気ままに描いているようなフリをして実はしっかりとプロットが作られている。人を食ったようなラストシーンといい、なんとも突き抜けたオフビート感覚じゃありませんか。

 シーンのつなぎ方はペレケーノスみたいですね。同じシーンを視点を変えて何度も描写する。だから、妙に厚みのある立体的で映像的な舞台が構築される。狙ったものなのか生得のものなのかはわからないが、独特の突き抜けた軽さも心地よい。グロい暴力描写もあるし、死体もじゃんじゃん出てくるのにこの明るさはなんだ。正直言っちゃえばちょっと驚きの作家だ。

 二人の落ちこぼれ警部補が、お目こぼしを条件に特別監察官から公安のエリート警部を内偵するという極秘任務を仰せつかる。ドタバタの始まり。キャラクターがうまく描けていないので、乗りにくい部分はあるが、割り引いても充分に読ませるストーリィと壊れ方だ。むちゃくちゃなチェイスがあり、狂気じみた人格破壊あり、それでいて親子の心の機微をじっくりと描いたりする。同居してるんだよね。妙に惹きつけられる。

 実に不思議な作家。ものすごい才能を感じる。これは全作品読まなきゃダメですね。

国内作家INDEXへ

ギャングスター ドライブ    戸梶圭太
幻冬舎 2000年5月10日 第一刷発行
『溺れる魚』の感想で、戸梶さんが影響を受けていると思われる作家に筒井康隆とジョージ・P・ペレケーノスを上げたが、この物語を読むと映画監督のタランティーノを思い出します。元々、ペレケーノスのシーンのつなぎ方がタランティーノ風なんだから、なにをいまさらでありますが。

 物語は相変わらずの疾走ぶり。ダンサーくずれで人生の岐路に立つ敏子が、亡母の友人である三木田麗子に500万円で誘拐を依頼される。誘拐するのは麗子が前夫に親権を奪われた娘だ。幼馴染のヒモ生活者・一生を誘って、まんまと誘拐したはいいが、手違いとアクシデントの連続であれよあれよ深みにはまって行く。小気味よいドタバタのはじまり。今回は『溺れる魚』のようなシーンつなぎのテクニックは使わないのでとてもスピード感がある。グイグイ読ませて、あああ、おもしろかった。でも、何も残らない…。今回は、『溺れる魚』みたいな才気ほとばしる感覚が少なかったのでちょっと食い足りない部分もある。

 良くなっていると思われるのが、キャラの書き分けと立たせ方でしょうか。逃げる敏子と一生を追う大薮春彦狂いのヤクザなんてめちゃくちゃおもしろいし、レーサー気取りのヤクザにしても、ラスト間近でターゲットを変更するあたり、ホントに人を食った話でとても好感が持ててしまう。意味も無く登場させたサラリーマンが無意味なようで、実は深読みしたくなるキャラで笑わせてくれる。残念なのは、一番大事な誘拐コンビ敏子と一生に切れが無いことだろうか。三木田麗子の出番が少なくてもったいないとか。

 中身は薄いけど、ぼくは戸梶さん好きですよ。はちゃめちゃなようで実はしっかり計算されている。しかも生来の明るさが心地良い破天荒。この物語は、筆休めの小品といった感じで、軽くさらりと書いた印象。深刻ぶらずに明るくポップに読ませる。成長物語をあんまり中心に据えると臭くなるのをよくわかっていらっしゃるから、これもまたサラリと混ぜる。益々期待大。迷っています、未読本を買おうか借りようか。

国内作家INDEXへ

神無き月十番目の夜    飯嶋和一
河出文庫 1999年10月4日 初版発行
 この物語は、中世から独立国のように扱われてきた常陸の国の北部(現在の茨城県袋田あたり)に位置する小生瀬と呼ばれる村が、徳川家康の検地を巡るいざこざで全ての村人が虐殺されるに至る顛末を、非常に理知的に感情を廃して綴った歴史小説の傑作だ。なんといっても、感情を廃した透徹した視線と、事象を淡々と正確に追おうとする作者の姿勢がすばらしい。そんな作者によって構築された物語は、細かな取材によって当時の習俗が臨場感を高め、特異な肌触りを持った臭うが如く濃密な小説空間を作り上げた。村人全員惨殺というジェノサイドを、単なるお上憎しのお涙頂戴譚として描いてしまえば、ここまで深い感動は得られなかったでしょう。

 洋の東西を問わずいつの時代でも、君臨した為政者の権力を磐石のものにするための手段は「世界の均質化」だ。システマティックに統治するために、文化も宗教も習俗もより大きな最大公約数に集約しようとする。あるいは支配者の文化や価値基準を押し付けようとする。聖域を認めない。価値基準を統一せず、いちいち個別に対応していては効率が悪すぎるという面と、武力を背景に押し付けることによって力を誇示する意味とある。ときにサディスティックなまでに。この物語の悲劇の主人公小生瀬の村人たちにとって聖地である「サンリン」も「カノハタ」も、幕府役人にとっては単なる谷合いや山林でしかなく、住民が隠しつづけた神の田んぼである「御田」も単なる検地逃れの隠田でしかない。しかも、ジェノサイドはその聖地で行われた。すさまじい。

 共通の敵を前にして結束しているはずの小生瀬村の住民も一枚岩ではなかった。一時は検地を逃れたかに見えた「御田」も密告の憂き目にあい、さらに重なるボタンの掛け違いから転がるように事態は悪化してゆく。肝煎(庄屋)である石橋藤九郎が奮闘すれはするほど深みにはまる。密告者も急いて戦に走る若者も、小生瀬の自由な支配構造が生み出した鬼っ子だ。鉄の結束を誇る小生瀬にして300人からの人々の意思を統一するのは難しい。小生瀬のような背景を持たない有象無象が集う国家となれば尚更で、事態の経緯は冷酷で皮肉ですらある。

 八百万の神といわれるほど日本には神様が多い。農業を営む実家にも「タノカミサマ」と呼ばれる農業の神様がいる。奥の間にしつらえた神棚に奉られていいて、家長である父が毎朝拍手を打って五穀豊穣を祈願していた。ほかにも未だに「ネング」とか「ジョーノ」などという言葉が生き残っていて、地元農民は平気で使っている。「ネング」とは「年貢」のことであり、「ジョーノ」とは「上納」のことである。上納金…。生かさず殺さず、徹底された農業政策のもと支配は完璧に行われていた。21世紀の今に至っても…。

 多くのキャラをきちんと描き分けて、細大漏らさず書きとめようとする作者の姿勢は鬼気迫る。幕府方、小生瀬村方、入り乱れる登場人物たちの思惑まできちんと書き込んで、細かいエピソードを冷徹に描きこみつつ物語は転がり堕ちてゆく。いや、ホントにすさまじい。不謹慎とは思うが、読書中妻子の寝顔を見てホッとため息をついた。そんな小説だ。

国内作家INDEXへ

雷電本紀    飯嶋和一
河出文庫 1996年9月4日 初版発行
 今読んでいる『始祖鳥記』もそうだが、この作家は歴史小説でも武将や有名人に焦点を当てず、あくまでも庶民を中心に据えることが大きな特徴だ。知られていない隠れた物語を掘り起こす。しかも視線の低いこと。ここでもまた、”お上に翻弄される民”を描いている。地を這うが如き視線の低さ。じゃあ、”雷電”が有名人でないかと言えば、大概の人は知っているはずだから有名人とも言えるんだけど、信濃の農民の倅として生まれ、江戸大相撲を代表する名大関になっても雷電自身の驕り高ぶらない腰の低さは庶民そのものなのだ。

 しかし、『神無き月十番目の夜』を読んでしまった今となっては、ドラマ性に乏しく起伏が少なくて物足りない。タイトルに”雷電”とあるので、名大関雷電為衛門の波乱万丈の生涯を描くのかと思ったらそうじゃない。歴史小説にはよくあるパターンなのだが、雷電は多くの登場人物のひとりに過ぎず、あくまでも主人公は”歴史”なのである。物語は世に「天明の大飢饉」として知られる時代。その時代を背景に、一世一代の名大関と謳われた雷電と同門の力士たち、彼らと関わる鉄物問屋の鍵屋助五郎を軸に語られる、いってみれば群像劇なのだ。これが評価の分かれ目かもしれない。ぼくは単純に雷電為衛門の生涯を期待していたので、かなり拍子抜けしてしまった。

 熱いエピソードは好きだ。この物語で披露される熱いエピソードも感動的ではある。だが、取ってつけたような印象が強くていまひとつ乗り切れない部分も多い。そのエピソードも、かなりの時間を隔てて切り取られているので、つながった印象が薄く、全体がつながりにくい。『神無き月十番目の夜』も、この傾向は見えたがこっちの方がより強い。ぼくはどちらかと言うと、ひとりの人物にスポットを当て、人物を深く掘り下げる方が好みなので、この物語は乗り切れないところが多かった。もちろん、雷電も鍵屋も千田川も気持ちの良い人物には違いないが、どこか食い足りない。おいしいところだけ、とってつけたようにつなげた印象が強い。

『神無き月十番目の夜』でも同じようなジレンマがあった。例えば、石橋藤九郎の女房に迎えられているはずの女性がなかなか姿を現さない。文脈からいけば、間違いなく妻に迎えられているはずなのだが、ジェノサイド間際まで語られない。藤九郎初陣直後のエピソードから考えれば、ちょっと不親切過ぎるように思う。もちろん、藤九郎の結婚なんて物語の筋とは関係なく、初陣直後のエピソードは、戦を嫌う藤九郎の思想の萌芽となる重要な意味があるのはわかるのだが、下世話なぼくはかなり物足りなかったのだ。そういうところに登場人物の人間性が現れたり、だから読者は親しみを覚え、感情移入できると思うんだけど、視点が下世話過ぎますかね。こんな読者は歴史小説には向かないのかな?

 この物語でも似たような不満があって、例えば鍵屋の女房は良いキャラクターなのだが、とても不親切に描かれている。それに、雷電はいつの間にか女房を貰い、いつの間にか子供を幼くして亡くしてしまっている。あの立派な雷電の父親はどうなってしまったのか。物足りない。物語性を持った人物を詰め込み過ぎているんじゃなかろうか。生涯雷電の脇で早世してしまった千田川なんて、もしかしたら雷電よりも魅力的かも知れない。千田川のあのエンターテイナーのような土俵マナーの謎が知りたい…などなど、毎度の臭うが如くの江戸の生活風俗は健在だが、少々焦点がぼやけてしまった印象は否めない。

 ちょっと小言が多くなってしまった。しかし、この作家が不世出の歴史小説家、あるいはエンターテイメント小説家であることに変わりはないと思う。

国内作家INDEXへ

始祖鳥記    飯嶋和一
小学館 2000年2月20日 初版第一刷発行
 文庫版『雷電本紀』の巻末に久間十義によるロングインタビューが掲載されている。寡作で知られる作者の興味深い肉声を読むことができる貴重な資料だが、そのインタビューの冒頭に「鳥人幸吉」の話題が出てくる。長い間書こうとしてきたが町人であるため資料が少なく細部がわからなくてなかなか書けない、というような内容だ。「鳥人幸吉」に取り付かれた作者。構想13年などという宣伝惹句も誇張ではない執念の一作なのだ。

 事実を淡々と語る作風で、熱いエピソードもどこか感情移入しにくい雰囲気を醸し出す作者だが今回は一味違った。相変わらず抑えた筆致ながら、第二章巴屋伊兵衛の物語は涙無しには読むことができない。せっかくの熱いエピソードが紋切り調で、冷たい印象の強い作者としては異例なことだと思う。飯嶋さんの作品としては初めて、涙が止まらなくなった。「鳥人幸吉」の物語でなく、副主人公とでも言うべき巴屋の物語に感動したことは、飯嶋和一さんという作家を意外と象徴的に物語っているような気がしてくる。

 飯嶋さんは、この物語でも主人公である「鳥人幸吉」に、胸に秘めたその思いを語らせない。主人公として語るべき人物の懐深くに入り込んでいかないのだ。思い起こせば、『神無き月十番目の夜』の石橋藤九郎、『雷電本紀』の雷電為衛門ともにそんな扱いだった。あくまでも主体は歴史そのものという視点。では、何故、巴屋伊兵衛にあれほどまでに熱く胸の内を語らせたのか、という疑問が生まれてくる。

 飯嶋さんは過去の作品で、庶民の視点から悪政に喘ぐ人々を淡々と描いてきた。限られた生の中で、ほんの僅かに残された生きる望み。しかし、どれほどの悪政であろうと、一朝一夕に変わるものではない。今を生き抜くしかないのだ。その悪政に耐えながら、例えば『雷電本紀』では雷電の戦いぶりにわが身を重ねて、庶民が生きる勇気を得る姿は感動的だった。しかし、それとても『神無き月十番目の夜』のジェノサイドほどではないが、ただ耐えるだけの庶民の姿だった。

 飯嶋さんは、この物語で初めて変革を描いた。それも飯嶋さんらしい描き方で。種さえまいて、土壌が整っておれば、事態はひとりで転がってゆく。巴屋伊兵衛の熱い思いが種となって、悪政が土壌を耕してあるから、必然的に江戸中期の商業制度を根底から覆すうねりとなる。事態は全く逆であるが、歴史観としてみれば『神無き月十番目の夜』そのままだ。

 人は思わぬところで影響を与え、影響される。主人公である「鳥人幸吉」は夢想する人なのだ。例えば、一種の「理想家」と言って良いと思う。巴屋伊兵衛を初めとした庶民が、飛ぶ幸吉の姿を悪政を正す鵺(ぬえ)として受け入れたように、本人の思いとはかけ離れたところで偶像ができあがって人々に勇気を与える場合はあるのだろう。ところが、夢想家には理屈がない。しかし、夢想家から勇気を与えられた実務家には、これほど余りある熱がこもるのだ。多少こじつけの感は否めないが、まったく別の物語を読むような三章からなる物語を読んで、ぼくはそんなことを考えた。

国内作家INDEXへ

大誘拐    天藤 真
創元推理文庫 2000年7月21日 初版 初出版は1978年
 いや……、臆面もなく(5.0)なんて、ホントはものすごく恥ずかしいんです。でも、おもしろかったんだからしょうがない…。2000年暮れに行われた、週刊文春の「20世紀傑作ミステリー10」で堂々の一位を獲得し、似たような企画があると必ず上位にランクインする『大誘拐』に、23年も遅れて読んでおいて今更(5.0)なんて…。ミステリファンのみなさまホントに申し訳ない。それもこれも、全集を出してくれた創元のおかげかな。ありがとうございます。是非、天藤さん全集制覇したい。

 ぼくは『大誘拐』というと、真っ先に北林谷栄さんを連想するんです。あの人の柳川としは絶品だった。映画自体は、数ある岡本喜八監督の傑作でも上位に入るんじゃないかな。岡本喜八監督にピッタリの原作。そこはかとない上質なユーモアが、日本人離れしている。もう、ぼくごときがグダグダ感想を書いてもあまり意味を感じない。紀州の大富豪・柳川としを誘拐する若者三人の扱い方と矜持とか、誘拐という犯罪でのメディアの利用方法とか、誘拐の被害者が加害者に知恵を貸すという前例はあったにしろ卓抜なプロットとか、警察との知恵比べとか、おもしろさを上げたらきりがない。

 でも、物語を支えているのは、人を食ったようでいてほんわかとした温かみのある物語全体を覆う雰囲気なのだ。この雰囲気がどこから発散されるかというと、誘拐される紀州の大富豪おばあちゃん−柳川とし−なんですね。このキャラクターなければ、物語は成立しなかった。ほんわかとドキドキハラハラのコントラストが絶品。小説の好みはいろいろあるだろうけど、この小説ならば、相手の好みを考えずに誰にでも薦めることができる。23年を経てもまったく色あせていない。これから長い間傑作として語り継がれるべき大傑作と言っておきましょう。未読の方は是非ご一読を。

国内作家INDEXへ

13階段   高野和明
講談社 2001年8月6日 第一刷
 なんで、こんなに描ける人が今更新人賞なんだ!? マジで驚いてしまった。最近の江戸川乱歩賞受賞作品の中ではダントツの出来栄えじゃなかろうか。おっと、あんまり読んでないから断定してはいけない。『脳男』とか。

 自らが引き起こしたとされる殺人事件の前後の記憶をなくしてしまった死刑囚(樹原)がいる。ところが、彼は無実らしい。元刑務官(南郷)と、傷害致死で投獄されて出所したばかりの男(三上)が、冤罪を晴らすために謎の依頼主に雇われる。状況から見て執行まで約三ヶ月。デッドリミット型サスペンスは、実際に死刑を執行させるための「死刑執行起案書」の回覧状況と、南郷らの捜査がカットバックしながら進む。タイトルの『13階段』とは、「死刑執行起案書」に捺印する13人の官僚を死刑台の13階段に準えたもの。現在の死刑台は13も階段がないらしい。

 南郷と三上が行う冤罪を晴らすための捜査が物語のタテ糸なら、傷害致死とはいえ殺人を犯してしまった三上らの心情や、南郷らの実際に死刑を執行する刑務官の心情を交えて語られる、死刑の是非論がヨコ糸として張り巡らしてあって物語の奥行きを深めている。死刑の是非については、どちらかといえば作者は反対論者のようだが、どちらの言い分も充分に取材されて、刑法論まで持ち出してその周辺の事情まで埋めて解説している。かなり啓蒙されるでしょう。死刑とは殺人である。死刑囚が犯した殺人と、国家が行う殺人は結局同じことではないか。ただ、応報という意味では……。

 もうひとつの美点が緻密な捜査とディテールである。冤罪を晴らすための手がかりは、死刑囚が思い出した階段を巡るひとつの情景だ。南郷と三上はデッドリミットを背負いつつ緻密に推理し、緻密に捜査する。さまざまな可能性が検証され、推理も手順も納得だ。ラスト間近になると、南郷と三上が掘り出した証拠から仰天の指紋が検出される。冤罪捜査が、被害者家族の苦悩と交錯し更に物語の厚みを増した瞬間だ。そして、南郷の皮肉な結末、ミステリ的な展開。堪能いたしました。

 これだけの物語を、よくぞこの長さでまとめた。たいへんな力量の持ち主だと思う。納得するまで取材するタイプのようだから、次回作まで時間がかかるかもしれない。首を長くして待っています。

国内作家INDEXへ