動機    横山秀夫
文藝春秋 2000年10月10日 第一刷
 2001年版の「このミス」国内部門第二位は伊達じゃなかった。すばらしい作品集。短編集はあまり好きではないけれど、息つく暇もなくページを繰って、一日で読み終えてしまった。群馬県の県紙である上毛新聞で、12年の間記者生活を送った作者の経験が存分に活かされた、極上のミステリ作品集である。

 警察の管理部門の出世コースを歩いてきた警視を主人公にした表題作(日本推理作家協会賞受賞作)のほかに、過去に殺人で服役していたことのある男を主人公にした書き下ろしの「逆転の夏」、地方新聞の女性記者を主人公にした「ネタ元」、地裁の裁判官を主人公にした「密室の人」の、合計四篇が収録されている。どれもこれも、浪花節に陥ることなく心の揺らめきが見事に描き出された完成度の高い作品だ。

 すごいのは、これだけ人生の機微を密度濃く描ききっておきながら、ミステリを忘れていないことだ。おかしな言い方で、しかも作者の今後はまったくわからないのだけれど、最近ミステリを蔑ろにするミステリ作家が多いと思いませんか? ミステリが小説分野で一段低いと誤解しているのでは、と穿った見方までしたくなる。そんな中で、これだけ確かな人間観察眼と洞察力を持ち、その上にミステリ的おもしろさを存分に備えた物語を書ける。もう脱帽するしかない。鬼に金棒とはこのこと。ミステリなら世に出られるから、という営業戦略でないことを祈るのみ。

 最高作は「逆転の夏」、次いで「動機」だろうか。ミステリファンとしては、「逆転の夏」の殺人で出所してきた男の心理描写と、見事なプロットに唸り声をあげることでしょう。女性記者を主人公とした「ネタ元」は、男性の中で働く優秀な女性の視点で、性差別やら何やらの手垢はついたが非常に扱いの難しいテーマに真っ向から取り組んでいる。ぼくは、いかにも男性作家然としたオチが気に入らないんだけど、それでも過去に読んだ似たようなテーマを持つ物語では出色の出来だと思う。「密室の人」も、都合の良い物語と言えないこともないのだが、自らの人生を問いかける味わい深い作品だ。

 読了直後は、満点をつけようかと思ったのだが、感想を書いているうちに気が変わった。短編(中編)であることで0.5、あまりにも手堅くまとめ過ぎているように感じられたので更に0.5マイナス。この作家なら、きっとすばらしい長編が書けるはず。長編、期待します。

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模倣犯    宮部みゆき
小学館 2001年4月20日 初版第一刷
 宮部みゆきさんの代表作は『火車』だと信じて疑わない。忘れられない。『火車』を契機として、宮部さんは穏健な社会派作家へ移行していくのかと思っていた。ところが、そうでもないようだ。相変わらずジュブナイルな雰囲気を漂わせていらっしゃる。ぼくは青春物が好きなんだけど、それでも宮部さんのジュブナイル風味にはどうしても合わない。宮部さんのは青春小説じゃないから当然なのだけど。少年少女向け風味のエンターテイメント小説で甘酸っぱくない。大人の視点から作りこみ過ぎて、若者が作者の道具に成り果ててしまっているような印象。

 多くのファンを抱える宮部さんなのだからぼくの感覚がおかしいんだろうけど、ついでだから思い切って書いちゃえば、特に『龍は眠る』とか『レベル7』『蒲生邸事件』あたりのジュブナイル風SF風小説には飽き飽きしている。一方で、宮部さんの暖かさに惹かれるのも事実で、その温もりと社会性が見事に合体した『火車』が忘れられないのは納得していただけると思う。だから、『理由』で直木賞を受賞したときは皮肉に思えた。ああいったジャーナリスティックな手法には感情の入る隙間が乏しい。その分、宮部さんの他作品からはかなりの隔たりがある。温もりは格段に薄い。宮部ファンはああいう作品は読みたくないんじゃないかな。ぼくはおもしろかったけど。

 こうして見ると、ぼくは真性宮部ファンではないようだ。その傍流宮部ファンにはこの物語がどう見えたかというと、ジュブナイル趣味と社会性の合体した小説ということになるだろうか。別に血腥いサイコ野郎にのみ震撼しているわけではない。エグいシーンの一つも無しでこれだけのサイコ野郎を描けているのはさすがだと思う。でも、品行方正で潔癖だよねぇ。だから凄みはまったくない。なくても問題ないのは、宮部さんの主眼がそこにはないから。そこそこで充分なのだろう。では、主眼は何かというと、加害者・被害者の家族をはじめとした周囲に降りかかる苦痛と影響なのである。これに関して、彼女の潔癖ぶりは尋常ではない。

 書く書く、これでもかこれでもか。瑣末な脇役にまで主役を張れるほどの背景を与え、書き込む書き込む逡巡させるさせる。結果出来上がったのは三千五百数十枚の超大作。たしかに重厚な小説だと思う。でも、長きゃあいいってもんじゃないでしょう。宮部さんほどの小説家が、これだけ書き込まなきゃ言いたいことを言えないわけがないでしょうに。ぼくにはほとんどが言い訳に見えてしまう…。一本調子で誰も彼もに書き込まれるもんだから、悪い癖で斜め読みしている自分に気がつくこと度々。申し訳ないが、必要無さそうな脇役がたくさんいた。主役級の人物にも流して良い人物がいると思う。この饒舌な人たちの中にあって、高井和明くらいには異彩を放たせても良かったろうに。

 巷で、評判の有馬義男もそれほど魅力的とは思えなかった。だけでなくて、この物語では誰もに常識から外れるような勝手な動きをさせて、それを読者に納得させるべく行間を埋め尽くしているようにしか見えない。ひとことで言えば、度を越したあざとさ。ともかく作為的過ぎ。それはもちろん、宮部さんほどの作家だから、水準点は軽くクリアしているのは間違いない。でも、ここまで読ませておいてあのラストはないだろう、と思ってしまう。丹念に伏線を張っておいて、それが前畑滋子の罠に通じるのもわかるが、それでも犯人があんなに簡単に引っかからないでしょう。なんだか宗教的だなと、飛躍した感想を持ってしまった。序盤は大傑作の予感が漂ったのだが…。それでも、犯人の背景がまたまた…でウザいにしろ、劇場型犯罪者をここまで斬新に動かしたのはさすが、と言っておきたい。こんなヤツでてきそうだもんね。

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アンテナ    田口ランディ
幻冬舎 2000年10月31日 第一刷
 初めて読んだ田口ランディさんという作家は、よく言えば時代に敏感で、悪く言えば市場調査の上で現代人にウケる小説を理解して執筆されているような印象を持った。この物語はひとことで言ってしまえば、究極の「癒し系小説」なのである。もちろん、こんなテーマは古今東西の作家が数限りなく手垢をつけてきた題材だ。しかし、時代には時代の社会様式が生まれ、文化が生まれ、精神の在り様が生まれる。精神世界と癒しの手法に時代が切り取られるのは当然だと思う。そういう意味ではとても刺激的な小説だった。精神世界の在り様と癒しの手法がたまらなく刺激的なのである。

 民族的記憶を言い出したのはユングだったと思うが、田口さんは家族的記憶ときた。家族性の病気が遺伝子に刷り込まれた傾向によって発病するように、遺伝子に家族的な記憶が刷り込まれているということらしい。血の濃い田舎で生まれ育ったぼくには思い当たる節も多い。

 「妄想が人を癒す」「人は不条理な現実に堪えるために狂うのだ」「樹は大地のアンテナなんだ。そして、人もまた、大地のアンテナなんだよ」 こんな言葉がポンポン飛び出す。コラムニストとして鳴らした片鱗が、イマジネーションを増幅させる魅惑的な言葉となって随所に表れるのだ。それがまた読者を刺激する。村上春樹に似通った感触があるが、村上春樹よりも時代性が強くわかりやすい。

 田口さんという作家の名前は知っていても、噂のコラムすらも読んだことのないぼくは三部作とされる『コンセント』も『モザイク』も未読。だから、冒頭の市場調査云々は単なる推測に過ぎない。聞けば、他二作も精神世界にスポットを当てた作品らしい。続けて読みたいと思わせる作家には違いないが、テーマも作風も今のままならばとても飽きられやすいように思う。次に読む作品で今回のような新鮮さが得られるのかわからない。

 惜しくも受賞は逸したが他作品で直木賞にまでノミネートされた。時代が生んだ旬の作家なのだろう。反面、とても脆く危く、忘れ去られるのも早いような気がする。他の題材をどのように料理するか、新しいテーマをどのように作者流に料理するのか。今が絶頂なのか、それとももっともっと飛躍するのか、時代が生んだ作家は時代とともに消えてしまうのか、時代を嗅ぎ分けて生き延びていくのか、気になるところだ。

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狼は瞑(ねむ)らない    樋口明雄
角川春樹事務所 2000年11月28日 第一刷
 「仲語(ちゅうご)」とは、元々神仏と人との中継ぎをする人という意味合いの宗教用語だったらしい。立山という霊山の案内人から変じて立山の山岳ガイドの名称となった。今でこそ「黒部立山アルペンルート」として知られ、立山登山の基地である標高2,400mの室堂(むろどう)まではバスで行くことができるが、昔は立山登山あるいはその先の剣岳登山はたいへんな労苦を伴ったのである。「黒部立山アルペンルート」は、ミステリや二時間ドラマに恥ずかしいタイトルを冠せられて幾度も登場しているからご存知の方も多いと思う。

 仲語の末裔たちは立山付近に散在する山小屋の主となった。この物語は、その「仲語」、立山最後の山岳ガイドの息子である佐伯鷹志が主人公の山岳冒険小説である。「佐伯鷹志」という名前が、実は茶目っ気たっぷりで思わずニヤリなのだ。仲語の村で立山信仰の基地となったのは、岩峅寺(いわくらじ)芦峅寺(あしくらじ)という富山県の二つの村である。その村の住民のほとんどが「佐伯」と「志鷹」という苗字なのだ。その二つを合わせてひとつを逆さまにすると「佐伯鷹志」。貞観寺とはたぶん芦峅寺・岩峅寺がモデルだろう。物語の舞台となる黒石連峰や奥出水山塊とは架空の地名だが、岐阜・富山・長野の山岳警備隊に関わる山というと、北アルプスの三俣蓮華岳から薬師岳に至るあたりがモデルと思われる。

 「仲語」の文字を見て、剣岳登山後に読んだ新田次郎『剣岳 点の記』を思い出してたまらなくなった。止まらず、延々と立山の話を書いてしまった。ついでに、『剣岳 点の記』のことを書いちゃえば、剣岳山頂に一等三角点を作るために努力した人々の物語で、当然山岳ガイドとして仲語も登場する。凄まじきは自然の力。近年の山岳冒険小説では、夢枕獏さんの『神々の山嶺』とか、真保裕一さんの『ホワイトアウト』、谷甲州さんの『遥かなり神々の座』など力作が多いが、山岳小説といえばやっぱり新田次郎? 

 海洋冒険小説や山岳冒険小説が、えもいわれぬサスペンスを醸し出すのは、敵の他に自然という人智を超えた脅威を相手にしなければならないからだ。自然が生み出すスペクタクルの前で人間は塵でしかない。この物語では、存在するだけで脅威の山岳地帯を超大型台風が襲う。暴風雨をついて救出に向かう警備隊の男たち。山岳冒険小説の舞台設定としてはこれ以上ない究極のアクションなのだ。舞台設定が鮮やかで、山岳を舞台としてからは熱き男たちに感涙し、山の描写にかつてみた色彩を重ね合わせて胸が熱くなった。ラストの鮮やかな色彩と構図が見事。

 だが、構成がまずいような気がする。冒頭の第一部は良いとして、第二部のSP(セキュリティポリス)としての部分を第三部の中に佐伯の回想か何かで挟み込んだ方がしっくりくるような気がする。人物たちの唐突な豹変や、脈絡なく仰天の事実を取り出したりが多くて面食らってしまうのも欠点か。もうちょっと伏線を張らなくちゃ。仕掛けもなんというか…。冒険小説はなんでもありでいいんだけど、もうちょっと外堀を埋めないと…。ほかは言うことないかな。男たちの熱き思いが浪花節に聞こえない人物造型のうまさ。加えて、暴風雨という極限状況のサスペンスが、首をかしげる仕掛けを忘れさせてしまうのだ。ま、読者によると思いますよ、もちろん。

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岡山女    岩井志麻子
角川書店 平成12年11月30日 初版発行
 死んだ者より生きている者の方が怖い、などという言っちゃ悪いが手垢のついたロジックを中心に据えてしまったところが、この物語の成功であり失敗でもあるような気がする。何をいまさら、でしょう? 成功した点はもうひとつ、タイトルのインパクトだろうか。「岡山女」って…。岩井さんの岡山への拘りは尋常じゃない。夫子を残して単身作家を目指して上京したという噂(ホント?)の通り作家の意気込みが、切れるほどの凄みを伴って読者に迫った『ぼっけぇ、きょうてぇ』に比べるとどこか力が抜けていて、それでいて深みのある短編を並べた連作短編集に仕上がった。

 ヒロインは隻眼の霊媒師タミエ。妾として家族までも養ってもらっていた旦那に無理心中を迫られ片目を切られる。旦那は喉を突いて自害してしまうが、タミエは運良く(運悪く?)生き残ってしまう。片目が潰れて霊能力を授かってしまうのだ。自然、霊媒師として開業。旦那は生前はタミエ親子を養い、死して後もタミエ親子に生きる術を与えた格好なわけだ。そのタミエの霊能力を頼って多くの人がやってくる。タミエが自分や家族、人生、人々を見つめる目はとても醒めている。自らの霊能力を半端と認め、自らの人生に対して開き直っているタミエは、市井の人々に対してもかなり醒めた目を持っている。

 市井…、違うかもしれない。この物語の依頼者たちはどれもこれも一筋縄ではいかない者ばかりだ。いや、市井なのか。ちょっと見は普通に見える人々も、その裏にはドロドロとした業を背負い、ひどい場合は死霊・生霊にとりつかれ人生に倦んでいるということか。そんな市井のようで市井でないような人々が次々と霊媒師タミエを頼って訪れる。実質的営業を行う、タミエの両親の描き方も良いと思う。客とタミエのやりとりに耳を立てながら、現地調査や聞き込みに走るのだ。これらがやはり醒めた目である種コミカルに描かれ、とても好感が持てた。

 一応、ホラー小説ということになっているが、怖さを期待しては読むべきでないだろう。怖さを期待して読むと見えなくなることがたくさんあるような気がする。岡山の季節感や、明治42〜43年という時代や、前述の醒めた感覚を楽しみながら、人の世の常を読み取るべきだと思う。

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池袋ウエストゲートパーク    石田衣良
文春文庫 2001年7月10日 第一刷
 物語自体の内容にも驚いたが、巻末の池上冬樹さんの解説の方により驚かされた。せっかくなのでちょっと引用してみる。
 『人それぞれ見方があるかと思うが、その作家が優れているかどうかを考える時、僕は、どのくらい海外作品の豊かさを血と肉にしているかを見る。(〜中略〜) 一言で言うなら、どのくらい海外作家の影響を受けているのかとなるけれど(〜後略)』 このあと、アンドリュー・ヴァクスが生み出したバーク・シリーズとの類似性などをあげて石田衣良論を展開されている。否定はしないが、ちょっとねぇ…。真意を量りかねる。

 この物語は1998年に文藝春秋から単行本で出た。そのとき、ものすごく話題になったのを記憶している。貧乏なぼくは当然読めない。今回読むことができたのは、文庫化のお陰なのだ。ありがとう>文藝春秋。でも、ありがたくない。続きが読みたくなったじゃないかっ!! 続きは単行本しかないんだぞ…。でも、読むしかない。見事術中にはまった。主人公真島誠(マコト)はぼくの好きなハードボイルド・ヒーローのすべての条件を満たしているから。冷徹に醒めている。なのにナイーブで、時として熱くなり、意味もないギラギラした正義感に支配されることもなく、淡々としていて、自己を尊重し、相手を尊重し、独自のルールで動く。しかも、若くて青春小説の一面もある、なんてこれ以上の好みはないくらい。

 ともかく、期待に違わぬ傑作だった。この文庫本はマコトを主人公にした連作で、短編が四篇収められている。どれもこれもすばらしい。最終作「サンシャイン通り内戦」にミステリとして看過できない齟齬があるような気がしたけど、それだってほかの内容のすばらしさが勝っている。最初は体言止めを連発する特異な文体に反発を覚えた。ところが、読み続けるうちに文体がリズムを生み出し、ドライブし、加速させていることに気が付いた。エルロイの『ホワイト・ジャズ』を髣髴とさせる。こちらの方がずっと動詞が多いが。池上冬樹さんならずとも、この物語を読んでヴァクスだけでなくいろんな海外作家を思い出すことだろう。最終話でぼくはドン・ウィンズロウのニール・ケアリーを思い出していた。もちろん、ニールとは違うがナイーブな感性がニールを彷彿とさせた。

 日本を舞台に、リアルなハードボイルドは描けない、なんて言われて久しい。この物語は、そんな定説を見事に覆す傑作だったのだ。舞台はタイトル通り池袋。こんな物語にリアリティを感じるまでに落ちてしまったわが日本の治安や、ガキどもの現状を嘆くべきなのだろうか。それとも、若者たちの世界をリアリティをもって再現した作者が見事なのだろうか。日本のハードボイルドといえば、どこかくすんだ色合いで、どちらかというとモノクロームの世界が多かった。ところが、若々しい感性と文体で、極彩色といっていいくらい生き生きとしたハードボイルドが出来上がった。すばらしい。リアリティのない拳銃が出てこなかったからかな。ナイフでもこれだけの犯罪小説が描けてしまうのだ。本歌取りでもこれだけに仕上げれば文句は言えまい。すばらしい!! 

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マイク・ハマーへの伝言    矢作俊彦
角川文庫 平成13年7月25日 初版発行(復刊)
 カルトなファンが今もたくさんいらっしゃる矢作俊彦さん。この物語は、矢作さんのデビュー作だ。噂に聞くビッグネームにも関わらず未読だったのには理由がある。確か1980年代前半だったと思うが、テレビ局でディレクターをやっている知人と飲んだ折り、当時矢作俊彦さんと仕事をしたばかりだった彼が件の作家の話を持ち出してきたのだ。開口一番「すっげぇ、やなヤツなんだ…」 尊大で度を越したわがままだとかなんだとか。真偽のほどは定かではないし、既に20年近く前の話なので詳細は覚えていないが…。

 ファンの方々にとっては聞き流せない話かもしれないが、単なる思い出話と聞いて欲しい。結果的に、この知人の話がぼくを矢作俊彦さんから遠ざける原因となった。それ以来、雑誌などで彼のルポなどを見るたび、頭をよぎって刷り込まれてゆく。記憶とは怖いもので、いつしか矢作俊彦さんはぼくにとって、嫌悪の対象でしかなくなっていたのだ。それでいて、喉に刺さった魚の小骨のように気になる存在だった。だから、角川が文庫化して書店に並んだ今が買いどき、石田衣良とセットに買ったグッドタイミングが今ごろになって読んだ理由なのだ。。

 読み始めは恐る恐る。独特のうねるようにドライブする文体になかなか馴染めない。ストーリィもはっきりつかめない。気取りとしかとれない言葉の選び方、カタカナの綴り方。読み進めれば、確かに日本の小説にはない、非常に洗練された雰囲気がある。漢字の名前が出てこなければ、海外の作品を読んでいるような錯覚にさえ陥った。文章のひとつひとつ、そのつながり方がとても洗練されていて深く文学的。会話も複雑に絡み合って含蓄が深い。これは並大抵の才能ではないですね。ただ、とてもアクが強く、読みようによっては海外作品の模倣としか取れない面もあって、そこらへんが好き嫌いが極端に分かれた原因でしょう。もっと悪く言えば、非常に自己陶酔的。

 もうひとつ乗り切れなかったのが、クルマに対しての執着心というか、薀蓄というか。クルマが若者の世代の象徴的大道具であることは今も昔も変わらないが、登場人物たちの真ん中にクルマを据えて、クルマに対して薀蓄を傾けながら、さもクルマが特別なものであるかのように扱う。下手すれば崇拝するような、人格があるかのごとく扱う執筆姿勢が肌に合わなかった。ぼくにとって、クルマは単なる殺人機械に過ぎないから。数多ある価値観のひとつなので許して。

 結局、ぼくは文学的で非常にスタイリッシュな風俗小説としか読むことができなかった。さらに展開がのろくて古めかしい印象。所詮、『深夜プラス1』のおもしろさがわからない、似非ハードボイルドファンには太刀打ちできない小説ということなのでしょうか。70年代当時の若者の風俗がとてもよく描き込まれていて、そこらへんはよくわかったが。ミステリではないのでそのあたりを期待して読んではダメってことかな。雰囲気を楽しむハードボイルドか。うん、独特のハードボイルドには違いない。雰囲気もひとそれぞれ。

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そして粛清の扉を    黒武洋
新潮社 2001年1月25日 発行
 第一回ホラーサスペンス大賞 受賞作
 今や、日本の犯罪検挙率は19%にまで落ち込んでいるんだそうだ。青少年の犯罪は凶悪さを増すばかりで、多少厳しくなったとはいえ改正少年法も実効はほとんど無さそう。それじゃあ、ってわけでもなかろうが、こんなアイディアの小説が出てきてもおかしくない状況にはあるんだろう。

 娘を暴走族に殺された45歳の女性教師・近藤亜矢子が、卒業式前日に自分の担任クラス全員を皆殺しにしようと企てる。このアイディアもおもしろいが、ほかにも意表を突く展開の連続で、まったく読者を飽きさせることがない。マスコミとヘリコプターの利用方法、突然明かされる亜矢子の真の目的とマンハント、タイムリミット近くのトリックなどなど、読者は手に汗握る展開に釘付けとなるだろう。自在のストーリィテリングは大器の予感を漂わせ、読者を翻弄しつづける。あ、タイムリミット近くのトリックは、マルティン・ベック警視シリーズで使われたことがあったな。

 ともかく殺しまくる。読者は一度は、少年たちの無軌道ぶりに憤りを感じたことがある人たちが大半だろうから、溜飲を下げる人も多そうだ。亜矢子に対して、読者の内側に、やりたくてもできない、精神分析で言う一種の投射のような状態が起こる。でも、読み進むうちに、待てよ、と思ってしまうのだ。長続きしない。「罪を憎んで人を憎まず」なんて状況ではないのはわからなくもないが、悪いのはともかく罪を犯したヤツで、その悪いヤツはみんな殺してしまえ、って発想が段々と辛くなってくる。背景が書き込まれていないからだろうか。亜矢子の痛みよりも、彼女が同時進行で犯している犯罪の方に憤りを感じてしまうのだ。もういいだろう、って。亜矢子の標的の拡散が自己満足に見えてくる。って、自己満足なんだけど。気持ちはよくわかるんだけど。

 目には目を、という復讐の精神は、危害を加えた相手に対してのもので、少年たちがいくら犯罪を犯しているとは言え、仕置人じゃないんだからこんなに殺して何になるなんて言いたくなってしまう。あ、仕置人か、亜矢子は…? ここらあたりへの感情移入はとても難しい。ラストに至ってその思いはもっと強くなる。サスペンスフルな読み手を捉えて離さない小説ではあるが、単なる扇動的な意味しか認められない。『バトル・ロワイヤル』と比べられての話題性一発の意味。よく考えれば穴だらけの物語で、勢いだけで読ませてしまう力はあるかも知れない。でも、話題性を狙った一発屋の印象が強い。次回作で真価が問われそうだ。

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少年計数機 -池袋ウエストゲートパークII    石田衣良
文藝春秋 2000年6月20日 第一刷
 『池袋ウエストゲートパーク』の続編連作小説集。ともかく、エンターテイメント小説はこれで良いのだと思う。確かに読了後に残るものは少ない。でも、ちょっとはハラハラドキドキして楽しんで読めたのなら、それはそれで貴重な時間を過ごしたことになるのではないかな。そういう本に出会うこと自体が難しいのだ。ましてや、本から啓示を受けるなんて更に稀なこと。敢えて言わせてもらえば、そんなことを望んで読書なんてしていない。感動の深さというか質という言葉に、こじんまり言い換えればどうだろう。それでも難しいかな。このシリーズは手垢のついたテーマでも、キャラを立たせて描けばおもしろいものが書けるという良い見本だと思う。

 池袋は相変わらずだ。三つ巴のヤクザ組織とGボーイズ。危いバランスの縁を器用に泳ぐマコトもまあまあかな。連載三篇「妖精の庭」「少年計数機」「銀十字」に、書き下ろし一作「水の中の目」を加えて四篇の連作小説集だ。前作よりもなめらかになった文体と、前作以上に物分かりが良い上に、果物屋以外にコラムニストなどという職業についてしまった若干20歳のマコトを憂いて前段のようなことを考えた。もちろん、最初からこの設定で書き進められているシリーズだが。全体に、ちょっと滑らかすぎかな。もうちょっと尖がっていてもいいような。気になった。

 ぼくは若者たちの現実になんてあまり興味がない。敢えて年齢で括るなら、若い世代では特殊な事例よりも普遍的な事象により惹かれる。それが、大人が回顧的に定義した普遍であろうが、なんであろうが、”らしさ”がちょっとでも自分の琴線を刺激すればぼくは満足する。今回のマコトはギリギリの線かな。コン・ゲーム的な楽しみが減ったのは意識してのことだろうか。チームを登場させず、マコトの孤軍奮闘だったわけだが、「少年計数機」のヒロキとか、「水の中の目」の肉屋などの強烈なキャラが心に残った。やっぱりこの人は小説を書くのがうまいんでしょうね。

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邪魔    奥田英朗
  講談社 2001年4月1日 第一刷発行
 自らの心の奥底に潜むどす黒い衝動が肥大して持て余し、わが身を守るためとは言え、坂道を転がり落ちるように悪事を重ねて行く人物の物語は、国産でも馳星周の作品をはじめとして、梁石日の作品など枚挙に暇が無い。しかし、仮に、先に上げた作家ならばこの物語の素材をどう料理したかと無益な想像を巡らすと、奥田英朗という作家の特異ぶりが際立ってくる。あくまで私見だが、上記の作家ならば及川茂則の視点か、及川恭子だとしてももっとジェットコースター的に目に見える部分で容赦なく急降下させるような気がしてしまう。刑事の視点も、久野ではなくあくまで花村。作者は、どす黒い衝動自体は意識して脇に退けているように見える。

 物語は及川恭子と刑事の久野と、面白半分でおやじ狩りをする高校生の渡辺裕輔を軸に進む。及川恭子にしろ久野にしろ渡辺裕輔にしろ受動的で、能動的で世俗的な欲望にギラギラしてはいるわけじゃない。流されるだけ、現状維持。そんな一見甘い、ごく普通の人物たちの周囲で、どす黒い欲望が渦巻く。孤独な彼らは翻弄され、身を守るために更に自らを孤独に追い込む。ともかく、ディテールがすばらしいのだ。特に及川恭子の心理描写とディテールが圧巻だ。夫を疑りながら、代替行為としてパートの待遇改善という運動にのめり込んでいく。またその結果にも目を見張らされる。行為には表と裏があり、不器用なまでに愚直な人は利用されるだけ利用されて捨てられる。

 一読して奥田英朗の大ファンになってしまった。特筆すべきリアリズム。及川恭子の物語なんて、町内の奥さんの話と置き換えても通用するくらいリアルで地味だ。しかし、それがどこにでもいるぼくのような読者の胸の内に、恐怖と憐憫と同情が綯い交ぜになった複雑な感情を呼び起こす。誰にも、どんなことでも起こり得ると。恭子の変貌ぶりもわかりやすい。ただ、ラストはあまり感心しない。人間は結局自分勝手な生き物で、最終的には自分が一番ってことなら、ここまで引っ張られた読者は拍子抜けしてしまう。母性に伏線が張ってなく、疑いの欠片も見出せなかったから。この恭子の豹変はそっけないタイトルと密接に関わる重要事だから、理由をもうちょっと語って欲しかった。これじゃ理解が難しい。それどころか当たり前過ぎ? 高校生もちょっと中途半端かな。

 馳星周や梁石日の人物に戦慄することはあっても、同情を感じることは少ないだろうから、このあたりに作者の逆転の発想というか、この物語についてはある種のあざとさを感じてしまうのも否定はできない。傑作との誉れ高い『最悪』は未読だから断定的なことは言えないが、及川恭子や久野のような地味な存在にスポットを当て、善良な意識が空回りして行き着く先を描くのを得意としているのだろうか。日常に潜む崩落の芽。だとしたら、とても怖い作家だと思う。ところで、善良な意識って何だ?(^^;;;。

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