ダブルフェイス    久間十義
幻冬舎 2000年5月10日 第一刷
 テレビの二時間ドラマの原作みたいだ。政界財界の巨悪に立ち向かう刑事群像、という設定はあの『刑事たちの夏』を踏襲している。だが中身は大違い。『刑事たちの夏』に比べて、いかにも小粒で全体が薄っぺらく、どもれもこれもがステレオタイプ。背後に控える巨悪が薄味で曖昧なら、刑事たちの正義感もおぼろな印象だ。彼らが突き動かされる根幹がわからない。むやみやたらに謳いあげない点や、意外と緻密に組み上げたプロットは買えるが、捜査がスムーズに行き過ぎて現実味が感じられない。作者の試みはうまくいっていないと思う。確かに警察小説は魅力的な題材だ。海外ではあれだけ名作・名シリーズが著されているのに、日本ではほとんど未開拓の分野。確かにこういう切り口を持った警察小説もあってもいいかもしれない。だが、その印象はキワモノっぽい。

 その印象を強くしてしまったのが、一番重要と思われるヒロイン百合子ら男性社会でしゃかりきになる女性たちの描き方だ。申し訳ないけど、その女性たちをこの程度にしか分析できず、しかもこの程度にしか描けないのでは彼女たちに失礼でしょう。あまりに凡庸すぎる。加えて、百合子にしろライバルの古賀にしろ、いかにも作り物っぽくて体温が感じられない。恭平と百合子の関係も踏み込みが足りないし。実際にあった円山町のあの事件から連想した物語にしてはあまりに凡庸な創造力ばかりが目立つ。もっと凄絶な物語を捻り出して欲しかった。殺された島本晃子に絞って語った方が良かったのでは? 何気ない日常が溜めるストレス、男性社員らの妨害、上司や取引先のセクハラ、徐々に屈折していくヒロイン……ダメか…(^^;;;。

 警察小説としては、刑事らの煩雑な感じがよく出ているとは思う。だが、なんでもかんでも警察の専門用語を使えば雰囲気が出せると勘違いした執筆姿勢には、疲れしか覚えなかった。視点の転換と見せ場のわりに登場する刑事が多く、ひとりひとりの刑事への踏み込みも甘い。いまどき「スッポンの戸田」なんてあだ名を目にするとは思わなかったな。もっともっと刑事の人間像に踏み込んで欲しかった。唯一村上刑事が味を出すかと思ったらそれも肩透かし。構成も紋切り型過ぎてサスペンスは盛り上がらない。なんというかな、ライトな警察小説? 新聞小説をそのままたいした整理もしないで単行本にしたような気がする。もっと的確な肉付けが欲しかった。

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千里眼 ミドリの猿    松岡圭祐
小学館 2000年3月20日 初版第一刷
 荒唐無稽もここまで極めれば立派なもんだ、などとは絶対に思わない。あざとさ無限大で理解不能のメディアミックス。だいたい読者をなめてるよ。作者の著作のどこから、どこに、どうつながってるの? 映画の『催眠』を見なくちゃダメなのかい? この物語のラストから映画の『千里眼』へつなげるのか? なんだわけのわからない「ミドリの猿」とかいう答えの無い謎かけは何だ。いいかげんにして欲しいぞ。とりあえず、映画を見なくてもそれほど問題ないように描いてはあるが、それこそ読者をなめきった最たる態度。浅はか過ぎて言葉もない。だってね、この本を最大に楽しむには映画『催眠』を見なくちゃならないんですよ。映画の続編なんだからね。映画を見ることのできない読者は最大に楽しむ術を最初から奪われているのだ。だから映画を見ろ? ふざけんな! 映画は本よりも接するのが難しいんだ。大沢在昌みたいに「ゲームへ続く」の方がよっぽどストレートでいいよ。

 本には文庫本という最終形態がある。そこまでたどり着くのは大変なことなのだ。文庫本となって、共有財産として残る作品を書くことが少なくとも作家の願いだと思っていたけど、そうでないヒトもいるんだねぇ。時代の流れ? なんていうか、金の亡者っていうかさ。時代に要求された自分、と誰だって錯覚するかもしれないけど、もうちょっと頭が良ければ……、なるほど、頭が良いから使い捨ての自分を自覚してこういうことをしてるのかな? 自分の作り出したキャラクターにも愛着がないようだし。もうこれ以上語りたくない。ストーリィだの、他のキャラだの、設定だの、どれを取っても最低最悪。こんなもの出版するなよ>小学館!

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秘密    東野圭吾
文藝春秋 平成10年9月10日 第一刷
 ぼくにとっては、江戸川乱歩賞を受賞した『放課後』以来の作者の作品。当時の記憶は定かではないけれど、こんなに読み易かったっけ? あまりに文章が平易なもんだからスラスラ読め過ぎちゃって、右の耳から入って左へツーッと抜けていってしまう。手ごたえが感じられない。いい話には違いないんだけど、読み終えても充足感が少なかった。描写もストレートだよねぇ、多少引っかかりのある方が好みなので。

 あらためて説明の必要はないと思うけど、ネタは大林宣彦監督『転校生』は言うに及ばず、いろんな作品で取り上げられている「入れ替わり」っつーか「憑依」っつーか。この物語では入れ替わるんじゃなくて、娘の身体に母親が憑依して娘と同居するわけね。母親が11歳の娘に入り込んでからの、娘=妻と父=夫の悪戦苦闘が描かれる。娘=妻の心と身体のアンバランスと、成長が巻き起こす数々のエピソードは、なんちゅうかそれなり、でしょうか。行き着いた先が、愛する者の幸せを祈る、なんてあまりに普通であまりに古風。でも、これが作者のやり方なのでしょう。父娘じゃなく夫婦の愛情物語にしてしまうのは、常道過ぎるような気もするけど

 娘=妻の直子はさすがにしたたかだよねぇ。こういう解決しかなかったのはよくわかる。でもね、女性の強欲さをこんな風にきれいに解決されても反発しか残らないのだ。父親=夫の平介には違和感が付きまとうし。全体的に無駄なくそつなくきれいにまとめ過ぎ。

 良かったのは、最終1p前414p、平介のセリフ「そんなことは三十年も前からわかっているよ」……これはおぞましい。当然至近距離に藻奈美がいるんだよね。彼女には聞こえているんだろう。さあ、この親子はこれから死ぬまで欺瞞を貫き通すのか。それとも近親相姦含三角関係に陥るか。父親平介のタガがはずれて発狂するか、それとも全部暴露して藻奈美に捨てられるか。どっちにしろ、ここに至るまでの物語よりも、この後の物語に俄然興味が湧いてくるのだ…(^^;;;。

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虹の谷の五月    船戸与一
集英社 2000年5月30日 第一刷発行
 直木賞受賞作である。56歳、作家生活21年の日本冒険小説界の重鎮を「中堅作家」扱いした選考委員及び某社の方々に、改めて読者との感覚のズレを思い知らされた受賞劇だった。とはいえ、当の船戸さんはどうか知らないが、くれるもんは何でも懐に入れる主義のぼくは素直に喜んどります。お前が喜ぼうがどうだろうが関係ない!? …その通りなんですけどね(^^;;;。

 確かに、直木賞選考委員の方々が好みそうな作品であります。冷戦構造をバックにして異民族間の血みどろの抗争に否が応でも放り込まれた無名の人々を、彼等の視点から描いてきた作者が選んだのは、歴史と同じくして一歩前進したかのような日仏の混血の少年だった。だが、根底に脈々と流れる作者の視点の低さにはいささかのズレもない。明らかに違うと思われるのは、主人公の成長物語をメインに据え、民族の枠を超えた人間の誇りと希望を高らかに謳いあげている点でありましょう。この、気恥ずかしいまでに「誇りと希望を高らかに謳いあげた」という点が皆さんの目にとまったのかな。でもね、船戸さんは常に誇りと希望を謳いあげてきた作家で、こんな風なあからさまな描写でしか読み取ってもらえなかったのは残念としか言いようがない。とは言っても、民族の枠を超えたってところが新世紀の冒険小説の新たなる可能性を見出したと言われれば、その通りかも知れないが。

 ネトネトベトベトで脂ぎった己の欲望に支配された、船戸さんならではの登場人物たちに、いつにも増してスムーズに一人歩きさせてストーリィを織り上げているような気がする。その上に、フィリピン・セブ島の人々の生活感溢れる描写が被さって、眩暈を覚えるほどのなんとも濃密な小説空間に仕上がった。船戸さんには珍しく希望に溢れたラストといい、一般受けはするかも知れない。だがしかし、そんなに甘くないのだ。幾多の試練を乗り越えたジャピーノを取り巻く現実には、希望の灯火はほんのわずかしか見出せない。この清らかなラストには、更にジャピーノが成長するであろう希望と同時に危うさも暗示している。ジャピーノよ、お前次第なのだよ、と囁く作者の声が聞こえるようだ。

 単に直木賞受賞作というばかりでなく、最近の不調から見事に脱却して冒険小説に新たな地平を見出した船戸さんの代表作、あるいはターニングポイント作になるのは間違いないでしょう。

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アビシニアン    古川日出男
幻冬舎 2000年7月10日 第1刷
 文字・言葉に対する解釈と溢れでるイメージの奔流から、古川日出男という作家は、映画監督でいえばタルコフスキーのような作家だと勝手に思っていた。これはどうも違ったようですね。では、誰かというと、これもまた勝手に解釈しちゃえば、ビクトル・エリセなのですね、たぶん。シバが「猫舌」で邂逅し啓発される『ミツバチのささやき』への思い入れが尋常ではないと思ったのだ。シバには作者の作家としての何かが感じ取れるような気もしたし。確信はないけど。

 その映像手法も単純なモンタージュではなく、フォトジェニックを更に進化させたような複合的アプローチ。脳内から溢れでる言葉とイメージを積み重ねた上に、現実の映像にシンクロさせた散文詩的な美しい小説だと思う。というか、散文詩そのもの。言うまでもなく、しぐさ、行為、表情には言葉以上の何かが宿る。文字を喪ったエンマにシバは癒され、文字を喪う。ところが、作家が文字を喪うことはできない。そんな、小説表現の限界というか、作家のジレンマも感じられてしまう。いわれの無い疎外感まで含めて。

 作者のあがきも感じられる。同じ表現分野でいえば、『沈黙』では音楽を表現し、この物語では映像だ。『沈黙』も充分刺激的だったけど、ある意味この小説はもっと刺激的だった。少しだけこの作家にも慣れてきた。う〜ん、もう一度『沈黙』を読んでみる必要がありそうだ。ついでにデビュー作の『13』も仕入れてあるので、順番に、機会をみて。ともかく暗示的で啓発されます。

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てのひらの闇    藤原伊織
文藝春秋 平成11年10月30日 第一刷
 なんと言っても導入部が秀逸である。ここまでうまい書き出しには久しく出会っていない。上手さは時として嫌味に思えてしまうものだが、この作家はその程度のレベルはとっくに超えた上手さなのだな。いつの間にか物語に引きずり込まれていた。……と、そこまでは結構だったのだが、たいした引っ掛かりもなく一気読みして後を引かない。

 物語のなんだかんだが、あまりにステレオタイプで新鮮味に乏しかったからだろうな。ひねくれた見方をすれば、これは腕の良い職人の卓越した芸であって、どうしても書かずにいられないトラウマ作家とは、確実に一線を画すような気がします。確かにね、存在がハードボイルドからは最も遠い存在(と思われがち)のサラリーマンを主人公にしてハードボイルドとして成り立たせるには、こういう設定が必要だったのかもしれない。でも、この手の主人公を安易にヤクザに結びつけるのは、個人的には好みじゃない。アウトローの代表としてヤクザ云々って常道過ぎるのよ。他にもヤクザとの血の絆に縛られる登場人物があるが、どれもこれもいまいち。主人公がおしゃべり過ぎるのもいただけない。今回は特に。あ、ハードボイルドの主人公っておしゃべりなヤツが多いんだっけ? 光る脇役が何人かいたのが大きな救いだったかな。

 物語も、ちょっと謳いあげ過ぎ、作りすぎじゃないかな? 人物でも石崎会長とか柿島とか坂崎なんかは酔ってるでしょ? もう全体的にきれいすぎるんだな。きれいにソツなくまとめ過ぎ。実は内心、柿島の正体を楽しみにしてたんだけど、それも肩透かしに終わったし。

 ひと時の楽しみは与えてくれますが、それ以上のものは何もないですね。この人はずっとこんな路線で行くのかな? たぶん、次も読むとは思うけど。 

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葬列    小川勝己
角川書店 平成12年5月10日 初版
 昨年の横溝正史賞受賞作『T.R.Y』もレベルが高かった。今年の受賞作であるこの作品もかなりのレベルだとは思うが、ストーリィは荒削りな上に審査員の宮部みゆきさんもおっしゃるように、桐野夏生『OUT』の影響が強いのは間違いない。でもね、この程度は目くじら立てるほどじゃないと思うのだ。確かに多少の影響が見受けられるにしても、テーマとしては『OUT』的日常からの脱出にとどまらないし、ミステリアスな藤並渚という人物造型が傑出していると思うから。前半のヒロイン明日美から後半のヒロイン渚へバトンタッチする格好になる、この前半部分が余計な誤解を招くのだ。明日美とかしのぶの描写を極力減らして、渚一本に絞って物語を刈り込めば、オリジナリティ溢れる密度濃い作品になったと思うのだが。

 ストーリィにはご都合主義が目立ってしまうが、同時にとても将来性豊かなエンターテイメント性を感じる。別に、ご都合主義=エンターテイメントではないんだけど、熟達はこのあたりの処理がもっと上手い。つまり大嘘を本物らしく見せる努力が足りない。細かな嘘の積み上げ方が雑なんですね。ここらへんは将来期待かも。別荘突入シーンなどもかなり手際よく描写されていると思うし…、う〜ん、女性三人で築いた凄惨な死体の山としては少々高すぎるかなぁ。渚を筆頭にその女性三人の描き分け傑出していた。人物のつながりなどが安易に走ったとは思うが。

 一番買えるのは、物語に力を感じることだ。単なるテクニックで描いた物語ではなく、腹の底から湧きあがってくる物語の力を感じる。作者自身がこの作品を書かなければならなかった必然のような。この手の力を感じさせる作家は少ないので、将来には期待してしまいます。こうなると同時受賞の『ホモ・スーペレンス』にも俄然興味が湧いてくる。早速仕入れねばね。

 しかし、横溝正史とは似ても似つかない受賞作が連続しているけど、いいのかなぁ。 

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虚の王    馳 星周
光文社(カッパ・ノベルス) 2000年3月30日 初版第一刷
 一部ではマンネリとの声もある、作者の暗黒小説である。確かに『不夜城』の鮮烈はないが、個人的には自らのダークサイドを刺激されながら堕ちていく人間像ってそれほど嫌いじゃないので、この物語も充分に楽しむことができた。特に今回は、暗黒の太陽が現れて、自ら輝けず暗黒への憧憬哀れな月を引っ張る物語でもあるしね。ま、胸クソの悪くなる偽善者が登場する物語よりも、ずっと本質を突いているように思えるのである。花村萬月描くカリスマと殉教者のイメージもあったし。

 今回描いたのは、ティーンエイジャーの虚無というか、精神の荒廃。主人公の男二人は17歳と19歳。虚の王=17歳の渡辺栄司はそこそこだと思う。この17歳の虚無を主眼にせず、栄司に引っ張られる19歳の新田を描いたのは結果的に成功していると思う。虚無は虚無であってね、別に逃げているわけではなく、そこに存在している実存的虚無は描くだけ無駄で、どんな風に描くかも想像ついてしまうから。もっともこの部分を文学的にクリアしたら、たいへんなことだとは思うけど。というわけで、栄司はそこそこ。残念なのは、結局十歳代であろうがなかろうが、どの世代でも共通の虚無なわけで、唯一新田のアンバランスさが十歳代と思わせたのみ。この世代ならではの虚無なんて実際あるのでしょうか?

 ともかく、虚の王=栄司の持つ引力よりも、それに引かれる者により重点が置かれているわけで、作者が描きたかったのは19歳の新田隆弘なのであるな。ま、読めばわかるんだけど。この新田が物語の鍵。言い換えれば、エイリアン=渡辺栄司と、読者を結ぶ接点なのである。一読では年齢不詳。30歳代かと思ったら、栄司より2歳しか年上じゃない。やけに老成している。なのに自分がない。まさに鍵。ただ、単にちょっと年長という以外、栄司を取り巻く他の連中と新田がどう違うのか、最後までわからずじまい。たった2年のこのギャップは何なのか? と考えれば、やっぱり栄司は普遍的にどの世代でも発現する突然変異種であって、やっぱり主眼は新田にあると思い至る。ってことはどの世代にも新田がいるわけで……。新田が栄司に惹かれる理由も単純に過ぎたような…、う〜ん、こんなもんなのでしょうか…。

 このふたりに、希生と潤子のふたりの女性を配する。当然彼女らも堕ちていく。サイコがかった潤子は今までの作者には無いアプローチかも。『漂流街』と『M』は未読な上に、自らのウニの脳味噌を持て余す状態なので自信ないですが。

 作者の文体は、エルロイ『ホワイトジャズ』を彷彿とさせる。研ぎ澄まされた登場人物たちの意識が刺さるようだ。でも、なんというか、奥行きが感じられない。ダイナミズムが感じられない。リアリティに欠けすぎ。十歳代と括らない方が良かったような…。個人的には、もっと卑近などえらい悪が読みたいと思うのですが……。

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 13   古川日出男
幻冬舎 1998年3月15日 第一刷
 「一九六八年に東京の北多摩に生まれた橋本響一は、二十六歳の時に神を映像に収めることに成功した」 この刺激的な幕開けで始まる物語は、古川日出男のデビュー作である。凄い。この二行でもう作者の掌中だ。

 第二作『沈黙』では音楽、最近作『アビシニアン』では映像を、溢れんばかりの言葉の奔流で原稿用紙に刻印した作者は、処女作では色を刻印していたのだ。縦横な筆は神の意味する色を読者の脳髄にイメージさせる。色と神。常人には思いもよらない視覚的アプローチによる神の暗示は、主人公橋本響一が視覚異常者であることによっているには違いない。独創的な作者のアプローチは序盤からぼくの内部に、めくるめく万華鏡のような圧倒的色彩感で渦巻いた。作者の暗示する”色”とは何だろうか? 「すべての網膜の終り」これもまた人間の知覚の限界を指すのだろうか。あるいは文学表現への挑戦なのだろうか。見ているが、見ていない。見ていないが、実は見ている。体験させる作家古川日出男の世界に耽溺してしまった。他2作よりも物語性が強く感じられたのも原因かもしれない。

 物語は二部に分かれる。第一部は濃密だ。響一の生い立ちから、叔父の関口に伴われてアフリカザイールの原住民と交流、原住民に出現する聖母マリア・ローミ「黒いマリア」のエピソードなどが語られる。広範に渡る取材を縦横に駆使し、緑濃い密林描写は圧倒的である。息苦しいほどに。
 一転して第二部では実にアメリカ西海岸なカラッとした筆運びでリズム感よく語られる。一部の空間に酔いしれたぼくは、二部の過剰な空間に少々戸惑った。訳文を意識したかの妙にポップな文体はまだ良いとしても、登場するアーチストが何とも類型的にデフォルメし過ぎているような気もしたのだ。映画の内容もそれほどおもしろいとは思わない。どっかで見たような映画だしね。それよりも何よりも、時たま挿入されるザイールの現状が期待を高めたのだ。聖母マリア・ローミとその子との邂逅。何故、作者はそれを描かなかったのか。わからない。

 たとえ全体像をつかむことができないにしろ、読むの者のテンションを上げる芸術性と物語性の融合は体験と言って差し支えない読書だった。イコンや暗示の意図するところを具体的に指し示さなくても、読者の心象網膜に刻まれた色彩の無限なイメージを伴って、たとえようもない啓示的体験だったのである。

 作者の手法に慣れたせいかもしれないが、この物語が一番読みやすく、心に響いた。ここでもう一度『沈黙』を読んでみる必要があるかもしれない。是非読み返したい。

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