酔いどれ犬    樋口明雄
カドカワ・エンタテインメント 平成11年3月25日 初版
  阿佐ケ谷中年探偵団。この物語に登場する飲み助たちは、そう呼ぶしかあるまい。主人公はうらぶれた元役者の鳴沢多聞。かなり以前に連続ドラマの主役を張ったことがある。その役が私立探偵役。ドラマのシナリオのようにかっこよくはいかないが、自分なりの矜持を守ろうとする。そのアウトローな主人公のまわりで、生き生きと語られる阿佐ケ谷の飲み屋とその常連たち。下町でも山の手でもない阿佐ヶ谷に押し寄せる都市化の波とあいまって、時代に取り残されたモノたちが繰り広げる物語。

 まずまず、気持ちの良い物語ではあるのだが、いかにもありがち。登場人物たちはどれもこれもステレオタイプのように思える。善悪の捉え方も正直言えば通り一遍。性格異常者やシリアルキラーばっかり読んできたツケかも知れないが、主人公の鳴沢からしてがどうもワンパターンなステレオタイプだ。だが、これは酷というものかもしれない。すでにハードボイルドのヒーローといえば、決まり切ったパターンがある。ワンパターンに陥りやすいのも事実だ。そのパターンを打破するために、探偵はアル中になったり、強烈なトラウマを抱えたりしてきた。アイディアが出尽くしたとは言わないが、主人公により以上の個性を求めるのは酷かもしれない。では、何を求めるのだろうか。ハードボイルドは言って見れば精神の産物だから、ハードボイルド的精神(書いてる傍から背中が痒くなるが...)を作品でどう表現しているか。どの程度のリアリティで、どれほどの矜持を読者に示すことが出来るか。う〜ん、こんなことはもうあたりまえか。ドラマとしての奥行きがどれだけあるか。。。こうなってくると一つの範疇では捉えられなくなってくる。当然と言えば当然なのだが。

 この作品に目を転じてみると、そこそこに楽しめるハードボイルドには仕上がってはいる。考えられる要素を全てぶちこんでの人間ドラマともいえるが、どうも一人称小説の限界のような気もしてくる。

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スプートニクの恋人    村上春樹
講談社 1999年4月20日 第一刷
 「理解というものは、つねに誤解の総体にすぎない」 こんな素敵な警句を吐いて似合うのは、やっぱり村上春樹さんが一番じゃないだろうか。相変わらず、全編華美とも言えそうなレトリックに満ち満ちている。20代の頃は、春樹さんのレトリックが胸に染みたものだが、この物語では年齢的なせいかいちいち煩く感じてしまう自分が何とも悲しい。この人のインテリ臭さは、嫌いな人はとことん嫌いなんだろうな。ぼくにとっては『ねじまき鳥クロニクル』以来の春樹さんだが、ふとそんなことを考えてしまった。

 物語にはいろいろな要素があるし、物議を醸しているラストもいろいろ解釈ができそうだ。結局ぼくは、自分探しの物語として納得した。ミュウの観覧車の物語といい、ラストといい、暗喩として考えればおのずと答えはでてきそうだ。作中にあるように、それは暗い夜空に鋲で打ち付けたようにそこに存在している何か。スプートニクのように。ライカ犬のように。それによってぼくらは補完され、補完している。高い木に登ったまま煙のように消えた猫は、あちら側に居を移して穏やかに生きているだろうし、ぼくらはあちら側に思いを残したまま、こちら側で今のところは生きて行くしかない。

 帯にある通り、なんともミステリアスな恋愛小説。村上春樹さんの小説は無理に理解しようとする必要はないと思っている。ただし、読み返したくはなる。読んでいる最中、頭上から何かが降ってくるような、或いは、脳の奥深くに抱えた風船の弾力で柔らかく圧迫されるような感覚。得がたいものには違いない。

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東亰異聞    小野不由美
新潮文庫 平成11年5月1日 発行
 小野不由美さんとは決定的に決別しそうな雰囲気だ。『屍鬼』でもう二度と読むものか、って勝手な決心をしたのだが、もう一つの代表作である本作が文庫落ちしたのを機に、もう一冊だけとスケベ心を出したのが運の尽き。ノロノロの展開で読むほうまで亀になってしまい、読むのに一週間もかかってしまった。『屍鬼』に勝るとも劣らない疲労感に襲われている。ラストに少しだけ驚いて目が醒めたのが救いか。

 ある一方のファンから見れば、熱狂的になるのも頷ける。この雰囲気は簡単に出せるものではない。行間から立ち上る匂いは尋常なものではないのだ。『屍鬼』でもそうだったけれど、小説の中に異空間を作りだし、そこを独特の雰囲気で覆い尽くせる破格の筆力を有しているのだろう。読者はその閉ざされた紙芝居的空間に酔い、小野不由美さんの世界を追体験するのだと思う。特にこの物語では、本格物的なアプローチもなされ、きっと作者が新境地を拓いた記念碑的な作品なのでありましょう。

 でも、人間はどこにいるの? 重要な華族の兄弟はほとんど描けていないと思う。それに連続殺人魔がこの程度じゃあ・・・。そりゃあ妖怪も恐いのだろうけど、なんと言っても恐いのは人間なのだ。そのあたりに小野不由美さんの限りない可能性と、背中あわせの限界がほの見えるような気もしてしまう。『屍鬼』では静信という類稀な人物を描き、人間の恐さを描ききっている作者だからこんな心配はまったくの杞憂なのだが。ともかく、ぼくの心の琴線には触れない本だった。

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SINKER 沈むもの    平山夢明
トクマ・ノベルズ 1996年6月30日 初刷
 読了後、数時間を経過して未だに興奮が冷めない。圧倒的なのである。トマス・ハリス『羊たちの沈黙』の本歌取りなのは疑いようがないが、それを割り引いてもなお余りある作品に仕上がっている。これだけのサイコ・スリラー作品が日本にあったなんて・・・・。こんな作家が日本にいたなんて・・・・。

 確かに、ストーリィその他は『羊たちの沈黙』にそっくりだ。でも、「レクター博士」なくしては登場しえなかったであろう「プゾー」や「ジグ」の行動・エピソードをよ〜く読んで欲しい。これは生半可なサイコ作家では絶対に書けない。それにもうひとつ『羊たちの沈黙』にはないテイストが本作には詰まっている。物語自体が、実は掟破りのアプローチなのである。もちろん、この掟破りも作者の意図であろう。新味となっているのだ。児童虐待。逆手に取った恐ろしき痴人の愛。なるほど、これならば納得ができる。冷静に考えれば、実に荒唐無稽な物語ではあるのだが、妙にしっくり懐におさまる。作者の警察機構、犯罪学、その他の知識がリアリティを生み出しているためだ。

 そのリアリティと対称的なのが名前の表記だ。超能力者ビトー、元児童発達心理学者プゾー、ビトーの婚約者ジジ、警部のキタガミ、そして誘拐殺人犯のジグ。主な登場人物ではこの5人のみが、カタカナで表記されている。作者が作り上げた『SINKER』というジグソーパズルに、この5ピースが収まるべきところに収まって世にも恐ろしいサイコ・スリラーを作り上げているのだ。

 だから、この物語ではプロローグとは裏腹にビトーは1ピースに過ぎない。プゾーの内面に深く入りこまなかったように、ビトーの内面にも入りこんでいないからだ。そう考えれば、この物語は序章に過ぎないのではないか、そんな気がしてくる。次作に期待しよう。プゾーが、ビトーが真の主役になった物語を読みたい、と切に願うのである。紹介してくれたキムチさんには感謝のしようもありません。

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かくし念仏    和田はつ子
幻冬舎 1998年8月20日 第一刷
 なんだこりゃ!? 旺盛な創作欲は感じられるものの、残念ながら未消化で発展途上だ。物語は、日本女子大(和田さん自身の出身校とか)がモデルと思われる英陽女子大学の新米助教授の日下部遼。アイヌの血を引く日下部が奇異な殺人事件に巻き込まれ、己と対峙していく。和田さんの凄まじい取材は、安藤昌益に始まり、アイヌ文化、キリスト教、浄土真宗を始めとする各仏教、かくれキリシタンにまで及んでいく。だけど、会話の中でしか取材の成果を語れていないのは、やっぱり作者の力不足なんだろうな。解らないことは必ず誰かが教えてくれるのだな。。北海道から鹿児島まで走り回って、物語を紡ぎ上げた姿勢には頭が下がるけど。

 物語は三つに分かれている。第一部、第二部がそれぞれ独立した物語のような構成で、第三部がそれを結びつける役割を持っている。この構成は本人の意図なのだろうが、うまくいっているとは到底思えない。唐突に死体の山が築かれる第一部はまだしも、第二部にはあきれ返って怒りすら覚えてしまう。そして、いいかげんな黒幕といいかげんなラスト。第一部終盤あたりから黒幕の存在をアピールするセリフを吐かせるが、これがなんともあざとくて興ざめもいいところ。その第一部の犯人はお笑い(^。^;)。第二部の日下部はまるでお馬鹿(^。^;)。作者があまりに都合よく動かし過ぎなのだ。細かいことを言い始めればきりが無い。最大の欠点はその黒幕。第一部あたりからもっとチラつかせるべきなのだ。実体として。そして黒幕をもっともっと骨太に仕上げなくっちゃあ・・・・。もう一つ上げるとすれば物語の構成だろうか。同時進行は無理かも知れないが、少なくとももう少し一部と二部の構成を考え直すべきだったと思う。ああ、今度はこいつらか、って・・・・バレバレなのですよ。これだけのネタなのに簡単に見透かされちゃもったいないよね。

 唯一救いは、主人公日下部かも。一人称で語られる物語にのめり込めるかどうかは、語り手である主人公にどれだけ共感できるかで決まると思っている。その点日下部は結構気に入った。少女漫画的警視庁捜査一課女性刑事の水野とその関係もとっても良い。その水野も作者のいいように動かし過ぎなんだけど。。ま、きりがないので。きりがないついでにもう一つ・・・・なんでタイトルが『かくし念仏』なんだ?

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弥 勒    篠田節子
講談社 1998年9月20日 第一刷
 答えなんか無くても良いのだ。作家は読者に問題提起するだけでも、その使命を充分果たしていると思うからである。問題に対して、充分に検証し、マイナス面もプラス面も余すところなく読者に呈示する。答えは読者それぞれの中にあり、その思いを作家が限定する必要は全く無い、と思う。もちろん、答えを提示し、読者に賛否を求めることもひとつの方法ではあるが、この物語で取り上げているような問題に絶対的な答えなんか無いのだ。だから、篠田さんの方法に間違いは無いと思う。ぼくらは小説の中で、過酷な状況を追体験する。双方の綱引きを傍観者で済ますか、主人公永岡に感情移入するかは読者の自由なのだ。ただし、永岡が得た結論も藪の中である。ただひとつ言えるのは、どんな状況の中でも人間は生きねばならぬ、という自明の理だけである。

 さて、物語で提示される問題は非常に深いものだ。人間とは何か。生きるとはどういうことか。周辺の問題として、宗教と人間の関係。自然と人間の関係。人間の尊厳。幸福とは。差別とは。死とは。そして器としての政治とは・・・。篠田さんはこれらの問題に真っ向から取り組んでいる。現状とひとつの夢。それぞれのマイナス面、プラス面、を余すところなく伝え、それでいて自然体である。肯定も否定もしない。ラストも物質文明を完全に否定したものではないだろう。多少、その意図も見えるには違いないのだが、ぼくには自然なラストに思えた。

 全体がひとつのシュミレーションのような気もしてくる。パスキムというヒマラヤ山中の閉ざされた架空の国で起こるクーデター。覆された旧体制の内包する現実的真実と、理想を掲げる新支配者の理想。現実とのギャップが恐怖を増長してゆく。幸せを願わぬ者などいないのだ。原始共産制を幼稚にしたかのような理想を掲げる支配者は方法を間違えただけなのか・・・。

 ラスト近く、永岡が無意識のうちに弥勒をどうしたか。象徴的である。弥勒は人間の心に住む。篠田さんはそう言いたかったのかもしれない。

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魔 神    和田はつ子
角川春樹事務所 1999年5月8日 第一刷
 読み終えて頭を抱え込んでしまった。ひとつひとつの要素がバラバラで、あまりにもこじつけの印象が強いのだが、不思議な味があるのだ。この作品を読むと作者の壮大な意図が仄見えるような気がする。FBI流のプロファイリングに対抗する日本民族固有のプロファイリングを確立しようとしているような気がするのである。拠り所となるのは、日本固有の民族学、人類学などで解き明かす日本固有の風土など。現れる犯罪自体は同じなのだが、動機の定義づけに独創性を見出そうとする試みが感じられる。このあたりが作者がサイコ・ホラーと分類される所以だろうか。もちろん、これとてもあだ花の可能性が高い。この物語で語られる犯罪とその動機もいかにもこじつけの印象が否めないからだ。

 主人公は『かくし念仏』で登場した大学の助教授日下部遼。前作の直後の事件のようだ。この物語も日下部の一人称で語られる。警視庁捜査一課の辣腕女性刑事の水野がキャリアであることがわかって納得。相変わらずこの二人の関係は良いのだ。その水野が母性愛に目覚めたりして結構楽しませる。日下部も良いけど、水野にかなり興味が出てしまった。

 さて、物語の味付けは環境問題など今日的な話題に終始する。それに民族学的なスパイスを加えて、物語は独特の展開を見せてゆく。でも、多くの読者を納得させるには至らないだろう。サイコ・ホラーとして読めば、悪役(犯人)の存在感が薄すぎるのである。その犯人も簡単に想像がついてしまう。プロットも無理が多い。だが、作者のアプローチにはなぜか惹かれる。サイコと民族学の融合はやっぱり新味だ。もうちょっと作者の本を読みたい気分なのだ。

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催 眠    松岡圭祐
小学館文庫 1999年5月1日 第一刷
 これだけの知識を駆使して描かれているのに、どうも上っ面の印象が拭い去れない。人物描写の浅いせいか。ニセ催眠術師はまあまあ。だが、多重人格のヒロイン、刑事、心理センターの女性所長、カウンセリング部長、部長と敵対する精神医学者、部長の剣道の師匠、そして主人公の催眠療法科長嵯峨敏也・・・・これら主要な人物たち全てを、作者が背伸びしてやっとこさ描いているかの印象がある。特に嵯峨の上司にあたるカウンセリング部長のエピソードには頭を抱える。何の脈絡もなく元女房が現れ、いきなり不可解な展開?? 勘弁してくれ! 

 何といっても、主人公の内面に迫る描写が一番足りない。だから、彼の正義感も絵空事でリアリティがないのだ。結果主人公に感情移入できない。父親の影響をうかがわせる箇所がいくらか見うけられるが、この程度では全然足りない。主人公の背景にはもっと気を使うべきである。これほど私生活が謎に包まれた主人公も珍しいのだ。このあたりを落ちついた筆さばきで踏み込めば、もうちょっと厚みのある物語になったような気がするのだが? 熱弁を振るうわりに嵯峨には輪郭が感じられないのである。う〜ん、実はもしかしたら小説の初校あたりでは、そのへんの嵯峨の物語が手厚かったんじゃないかって気もしている。古い車のエピソードはその生き残りなんじゃないかと・・・・・。しかし、、、本職の臨床心理士なのに、リアリティのある人物がニセ催眠術師ってのも・・・・。

 人物造型については前述の通りだが、ストーリィは結構おもしろい。これは間違いないところ。精神病や神経症に対しての一般的な誤解や無知、医学と心理学の相容れない垣根など、語り尽くされている事柄とはいえ入門者にもわかりやすく描かれている。後者についてはいささかデフォルメがきつめだろうか。全体的にはサイコ物には違いないのだが、社会性が強くてかなり優等生的である。個人的には、もっと破天荒な多重人格物を想像していただけに、そういう意味では期待を裏切られたかな? 

 さて、嵯峨敏也はもう登場しないのでしょうか? (現時点では『千里眼』を読んでいないので) シリーズ化して和製アレックス・デラウェアを目指すなら、人間的な深みと魅力を与えなければならない。作者がこれをクリアできれば、かなりおもしろいシリーズになると思うんだけど・・・。考えてないのかな、シリーズ化。(3.5)

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柔らかな頬    桐野夏生
講談社 1999年4月15日 第一刷
 柔らかな「水」のイメージが全編を覆い尽くす。「水」は形を変え、「漂流」し、「洪水」となり、「浮標」を浮かべ、幾多を経て、何処へか「放流」される。小説のひとつひとつの章が、水に関係した言葉を選んでいるのにはそれなりの理由があるだろう。水の流れるにまかせ、漂うか、拒み「脱出」を図るか。「脱出」の先に待ちうけていたものは何だったのであろうか。気がつけば、更なる奔流となった「水」が逃れたはずの澱みに押し戻す。『OUT』で得たかに見えた自由の先に潜んでいたもの。それは究極の「脱出」は「死」でしかない、という一種の悟りだったのだろうか。第一章「終車」、つまり終わりから始まる物語に、流され身をまかせて欲しいのである。

 思考の流れを静かに辿ると、『OUT』の続編のような気もしてくる。それとも、桐野夏生さんは、ついに自分自身のテーマを手中に収めたのだろうか。ぼくは、乱歩賞受賞作の『顔に降りかかる雨』と『OUT』しか読んでいないので、あんまり偉そうなことは言えないのだが、確かに読者に伝えるべき確固たるテーマを掴んだような気がしている。そうとしか思えないような出来ばえなのである。ただし、最終章に疑問が残る。これは必要ないんじゃないかな。必要なら別の形が良かったんじゃないかと思えてならない。意図はなんとなくわかるのだけれど。。。

 一冊の本をジャンル分けするのは簡単だ。だが、この物語をミステリーだとか、ハードボイルドだとか、括ってしまってはいけない。主人公である浜口=森脇カスミの五歳の娘の失踪事件は、確かに読書のための推進力であるし、ミステリー的な興味もかきたてられるだろう。だが、それのみを追っては物語の核心に迫ることができない。登場人物たち一人一人の焦燥感、閉塞感で息苦しくなった第九章「放流」、自分の心がどう解き放たれるか、また漂うのみだったか、このあたりをじっくり読んで欲しいのだ。受動的であることは、積極的であることよりも難しい。これは決して諦観ではないと思うのだが。

 さて、この作品は佐藤賢一さんの『王妃の離婚』と共に、第121回の直木賞を受賞した。『OUT』よりもこの物語で受賞して良かった、と素直に喜んでいる。
 桐野さんは本当に突き抜けたのだろうか。ならば、どうやってこのような境地に辿りついたのか、読書前には予想もつかなかった思いに捕らわれている。『OUT』読了後には持ち得なかった欲望に身を焦がしているのである。順に読み返して見ようかな。

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異常快楽殺人    平山夢明
角川ホラー文庫 平成11年8月10日 初版
 作者の平山さんは、1996年に上梓した『SINKER 沈むもの』で一躍わが国のサイコ・スリラーのトップランナーに踊りでたと目される方。この本はそれより2年前、タイトルの通り快楽殺人を目的としたサイコ・キラー7人についての詳細を真面目に綴った、身の毛もよだつノンフィクションである。生真面目とも言える筆致だ。この手の本は、センセーショナルな部分のみを強調して、殊更に読者の興味を惹きつけようとする扇情的な本が多いように思う。だが、それらとは確実に一線を画する。問題を見据える作者の透徹した視線は一貫しており、犯罪者の内面に入りこんで行こうとする姿勢には求道者と言っても過言ではない程の執念を感じる。

 キーワードは、ここでもやはり「児童虐待」だ。我が国でも最近になって児童虐待のニュースが非常に増えてきた。偏に家父長制の崩壊と核家族化が原因だと思っている。ならば、児童虐待は増えることはあっても減ることはないのではないか。被虐待児童に対する法的な保護もないのが実情で、虐待されている子供を目にしても実の親の前ではぼくらは無力だ。子供たちを守るには・・・。最近、身近で虐待を何度か見聞きしている。彼らの行く末を考えると暗澹たる気持ちになってしまう。

 現在アメリカでは、『羊たちの沈黙』の続編である『Hannibal』が一大センセーションを巻き起こしている。この本は、トマス・ハリスが創始したとも言えるサイコ・スリラーを読むためのテキストと捉えるもよし、綴られた怪物たちに純粋に恐れ慄くもよし、怪物たちに感情移入し(これは危険!)異常心理の淵を覗くもよし、学術的興味をそそられるもよし、いろいろな読み方ができる本である。
 ただし、体調を整えられよ。心身ともに健全なときに読むことを強くお勧めする・・・。そんなときがあれば、、だが。。

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