M・シューヴァル&
P・ヴァールー
スウェーデンのおしどり作家。P・ヴァールーは1975年没。警察小説の傑作マルティン・ベック=シリーズを生み出した。1971年『笑う警官』でMWA賞最優秀長編賞受賞。

 マルティン・ベック=シリーズのみのリストとさせてもらった。
 ストックホルム警視庁殺人課主任警視のマルティン・ベックを主人公とした、全10巻からなる大河小説的味わいを持つ警察小説シリーズ。シリーズ後半になるにつれ、作者の社会批判が強くなる。
 ミステリとしては、緻密なプロットが大きな特徴。リアルな捜査小説としても第一級。小出しにされる謎解き、手がかりの手に入れ方、どれを取っても満足していただけるはず。
 読むならば、必ず『ロゼアンナ』から順番に読んで欲しい。間違っても『警官殺し』を先に読まないように。『ロゼアンナ』と『蒸発した男』の犯人が再登場しているから。

マルティン・ベック=シリーズ雑感
休暇と語学警視の職務女性たち脇役たち供応?習慣?

ロゼアンナ (3.5) Roseanna 1965 角川文庫 S50.03.01
蒸発した男 (2.5) The Man Who Went up in Smoke 1966 角川文庫 S52.05.30
バルコニーの男 (4.0) The Man on The Balcony 1967 角川文庫 S46.08.10
笑う警官 (4.5) The Laughing Policeman 1968 角川文庫 S47.07.20
消えた消防車 (3.5) The Fire Engine That Disappeared 1969 角川文庫 S48.12.20
サボイ・ホテルの殺人 (3.5) Murder at The Savoy 1970 角川文庫 S57.05.30
唾棄すべき男 (4.0) The Abominable Man 1971 角川文庫 S57.11.30
密 室 (5.0) The Locked Room 1972 角川文庫  S58.01.05
警官殺し (4.0) Cop Killer 1974 角川文庫 S58.03.25
テロリスト (5.0) Terrorist 1975 角川文庫 S58.04.25

全作品、高見浩訳

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ロゼアンナ ROSEANNA マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和50年3月1日 初版
 警察小説の白眉とも言われる、マルティン・ベック=シリーズの栄えある第1作目である。スウェーデンのおしどり夫婦がこの物語を書いたのは1965年であった。当時としては死体のヒロイン=ロゼアンナの性格はかなり新しかったのでしょうか。フリー・セックスとか? これだけタイムラグがあると、正直言って困ってしまう。どうしても現在の警察小説と比べてしまうのだ。犯人について見れば、サイコ物とも言えるのだが、これも時代的なものかその辺りに突っ込んではいかない。頭の中はクエスチョン・マークが桜並木のように連なる。

 もちろんマルティン・ベックの魅力がこのシリーズ最大の魅力なのでしょう。全く仕事に理解を示そうとしない奥さんにブチブチ言われながらも、寝食を忘れるほど事件にのめり込む。非常に人間臭いヒーローは数多の名探偵名刑事とは一味も二味も違う。超人では無いのですね。一応名刑事で通ってはいるようだが、それは粘り強いことと同義のように思える。警察小説としては、アクの強い脇役陣も魅力だろう。コルベリとメランデルとステンストルムの各刑事。マルティン・ベック自身も加え、彼らのドアの開け方からして象徴的なのだ。ノックもせずいきなりドアを開けるステンストルムは尾行の名人。乱暴にノックするコルベリは豪放磊落傍若無人でユーモアたっぷり。ところが意外と神経が細かい。キツツキのようにせわしなくドアをノックするメランデルは沈着冷静記憶力抜群で意外と皮肉屋。して、マルティン・ベックには音もなくドアをくぐり抜けるという癖(特技)がある。これにアメリカのカフカという人を食ったような名前の刑事や、ちょっと田舎のアールベリ警部(この人は良いね)その他が登場するなど、実に多彩な人物配置で読ませる。

 謎解きの過程もうまい。アメリカのカフカ刑事が大活躍するのだ。といっても実体は登場せず、遠くアメリカの地から証拠を送ったり、電報を打ったりするのみ。これがまあ気が利いていて、非常に良いのである。少しずつ少しずつ進展する捜査謎解きは綿密で細やかでリアルだ。そして導き出される犯人。これが???なのである。背景が不明。動機を説明されても理解に苦しむ。病気みたいだけど、それも不明。サイコかと思えば、たぶんそうなんだろうけど、これも半端で理解不能。これだけ多彩な刑事たちがこれだけ綿密に捜査して、やっと辿り着いた犯人がこれ? ちょっとねぇ、、。だいたいこんな年齢でサイコな初犯て納得がいかない。犯罪学的にもおかしいのでは? 時代的なものなのでしょうか。だとしても、この犯人像はいかにも中途半端な印象は否めない。サイコという分野が確立されていなかったからこうならざるをえなかったんでしょうか。

 かなり期待していたので、少々がっくりきてしまった。これだけならあまり人に薦められないかな。でも、シリーズ物は好きなので、全10作読んでみるつもりなんだけどちょっと腰が引けてるかな…。次作期待であります。

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蒸発した男 THE MAN WHO WENT UP IN SMOKE M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和52年5月30日 初版
 マルティン・ベック(まだ警部)=シリーズの第2作目である。変わった作品だ。今回のベックは単身ハンガリーの首都ブダペストに飛ぶ。仕事の虫であるベックは休暇先から呼び出され、わけもわからぬまま人探しでブダペストに飛ばされるのだ。当然奥さんにはブーブー言われる。奥さんのブーブーには今回から、コルベリも参戦してくる。この物語では確か新婚六ヶ月目。そりゃあ、ぷんぷんだよなぁ。

 シリーズの全貌が未だ見えないので、単純な感想になってしまうが、前作のベックに見られなかったテイストがユーモアだ。そこはかとないユーモアが随所に見られるのだ。特に、ベックがブダペストで誘惑される(する)シーンには思わずニヤリとさせられた。脇役が一手に引き受けていた部分をベックに、というのはやっぱり作者も力を入れた「普通らしさ」の追求なのだろうか。誰だってイイ女を見れば、そりゃあクラクラする。そういう意味なら成功しているでしょうね。

 人物といえば、作者が描く女性がどうもいただけない。男はこれだけ魅力的な人物を描けるのにねぇ。『ロゼアンナ』ではアールベリという片田舎の刑事がなかなか良かったが、今回のブダペストの刑事もいいですね。前回に続き、証拠の集め方も実にリアル。多彩な人物たちが適材適所で奮闘する。で、疑問がひとつ生まれてくる。この夫婦、たぶんどちらからがプロット組み立て担当で、どちらかが執筆担当なんだと思うけど、いったいどっちがどっちなんでしょう? ここまで読んだ印象だと、旦那がプロット、奥さんが執筆のような気がするんだけど…。女性の描き方から類推しただけ。正解はどうなんでしょ?

 さてさて、こうしてベックは遠くブダペストで、身の入らない調査を続ける。事実が少しずつ判明するにつれ、当然ベックはのめり込んでいく。この辺りはさすがにうまい。特筆すべきは、冷戦時代のブダペストの描写だろう。ストックホルムですら物珍しいのに、冷戦時代の東側の大都市ブダペストときた。これはもう、舐めるように読んだ。いやあ、おもしろい。ドナウ、地下鉄、船、街の様子、観光地、温泉…。しかも今回はちょびっとだけだが、異郷の地でのアクション・シーンまである。実にサービス精神旺盛。起伏の少ない、ベックがブダペストで孤軍奮闘する前半から中盤部を読み通せたのは、こんな要因があったからでありましょう。

 後半になるとさすがに締めてくる。捜査する方も普通なら、犯人も市井の人なのだね。犯罪の空しさと、そこはかとない寂寥感を漂わせながら結末を迎える。地続きの大陸の国々ならではの出入国の甘さを突いた犯罪。コルベリの言葉が刺さる。確かに”if”は無い。もしあの時こうしていたら、もしあの時こうしなかったら…。紙一重なのだ。憎むべきは罪であって、人ではないのだな。それに反論するベックの問いかけとコルベリの言葉が毅然としていて良い。このシリーズに対してまだちょっと半身だったのだが、ベックとコルベリのやり取りを読んでシリーズの未入手作品を全部注文した。かなり前向きになった。 

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バルコニーの男 THE MAN ON THE BALCONY M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和46年8月10日 初版
 これは良い。とてもリアルで臨場感があって木目が細かく、極上の警察小説といえそうだ。ストックホルム警視庁のマルティン・ベック主任警視(この物語から主任警視−表記は警視長だけど)が主人公の警察小説なのだが、ストックホルムが舞台となるのはこれが初めてだ。満を持して、というヤツかな。巻頭にストックホルムの地図があって、これがとても役に立つ。公園、通り、地域、地下鉄駅…名前が出てくるたびに地図を参照した。極北の街なのだが、夏のためかこれと言った特徴が感じられなかったのが残念といえば残念。これも先入観なのかな? 熱さの描写が意外だった。

 さて、今回の敵は連続幼女殺人鬼である。平行して、公園を舞台に歩行者を狙った連続強盗事件が起きている。作者の仕掛けは細かく、読者を惹きつずにはおかないだろう。物語の起伏の作り方も非常にうまく、これに毎度のリアルで綿密な捜査状況や捜査員たちの焦燥感が被さって、前2作からは想像もつかない極上の警察小説に仕上がっている。後半から幕切れに至る部分があっけなさ過ぎたのと、プロットは確かにうまいがあまりに一直線で、もっと複雑な二転三転する謎が欲しいとか、犯人がちょっと、が減点かと思う程度だ。捜査陣の焦燥感が痛いほど伝わる。彼らの正義感が胸を打つ。いやあ、シリーズを読みつづけてよかった。

 『ロゼアンナ』にしろ『蒸発した男』にしろ、割とワンアイディアに頼りがちな印象が強かった。前者は単純なフーダニットではないが、一人の殺人者をずっと追いかける内容で、一点に集約された謎をずっと引っ張り続ける。後者は異郷の地を舞台にして、謎が少しずつ形を変えてはいるが、起伏に乏しい上にトリックもワンアイディアだった。いずれも複合的なたたみかけるようなサスペンス性には欠けていたと思う。それがこの物語では見事に化けた。前2作来の緻密さリアルさを継承しながら、息をもつかせぬサスペンスを作り上げたのだ。証人の作り方、証拠の取り出し方。とりわけ見事なのがベックの喉に引っかかった、犯人の人相に関する記憶である。喉に引っかかった魚の骨のように取れそうで取れない。これが物語にリズムをつけ、読者にベックと同化するための極めて有効なきっかけを与えているのだ。

 普通らしさを追求する作者は、人物ひとりひとりにも気を配る。警邏する警官、証人を見つける警官、犯人に迫る警官。ただ、これがパターンになってぼくらに読めてしまうのが良し悪しなんだけど。人物について言えば、今回からグンヴァルト・ラーソン警視が加わった。この肉体派警官が加わることによって、警官群像に想像以上の厚みを与えている。これも見事。人間臭い男たちが繰り広げる戦い。残忍な連続強盗犯が一転して捜査に加担するという逆転の発想の見事さ、人間観察の鋭さ。

 だが残念なのが前述の通り、犯人の造型なのである。サイコな犯人が薄いのだ。時代的なものですね。無いものねだりはしないことにしよう。ミステリ的に言えば、あまりに直線的すぎるきらいがあるでしょうし、犯人に意外性を求める人には向かないかもしれませんね。それでも、警察小説の傑作であるとこは間違いない。ストックホルムを舞台に、多彩な警官たちに思いっきり感情移入して、彼らの正義感溢れる活躍を堪能して欲しいのだ。

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笑う警官 THE LAUGHING POLICEMAN M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和47年7月20日 初版
 マルティン・ベック主任警視シリーズの第4作目で、シリーズ代表作と目されている作品である。MWA賞受賞作でもあるわけだが、代表作と呼ぶにふさわしい噂に違わぬ傑作だ。ひとつの到達点と言っても過言ではない。前3作より優れている点は、より磨きがかかりしかも計算され尽くした精緻なプロットは当然としても、ミステリ小説というスタイルをとりながらスウェーデンの近代史を紐解こうとする執筆姿勢が鮮明に見えてきたことがあげられる。1960年代中盤のストックホルム。作中でも盛んに大量殺人のアメリカというような記述をしているが、それに勝るとも劣らないストックホルムの当時の様子が驚きだ。杜撰な都市計画によって無残な姿をさらす住宅地。そこに巣食う種々雑多な犯罪者たち。テレサ事件によって調べられた29人の男たちの半生にほの見えるストックホルム。これこそが近代史と言っても過言ではないのだ。単なるミステリの枠組みを超えた瞬間なのである。

 地味な印象の強いシリーズにあって、今回は事件も派手派手だ。冒頭、マルティン・ベックの部下を含む8名が射殺される。まったく手がかり無し。個性豊かな刑事たちは雪のストックホルムで今回も地道に捜査を進める。刑事たちの動き、手がかりを見つけるディテール、提示される断片的な謎の妙、どれを取っても見事というしかない。そしてほの見えてくる真相。この謎解きにもまた作者の工夫が光っているのだ。個性豊かな刑事たちが独自に調べ上げた事実が一点に収斂するのである。毎回毎回登場人物ひとりひとりにきちんと見せ場を与えて手を抜かない作者だが、今回はいつにも増して周到で圧倒的な厚みがある。助っ人にまできっちりと見せ場を与え、徒にセンチメンタルに陥らず殉職した刑事にもきっちりと見せ場を与える姿勢には脱帽だ。なんと愛情豊かな筆であることか。それぞれの刑事が己の個性にあった証拠に執着して、それぞれに真相に迫る。こう書くと一見バラバラなように思えるが、それがベックという一風変わったコンダクターを通すと、実に組織だった動きと見えてしまうから不思議なのである。

 第3作『バルコニーの男』からベックの描写を減らし、その分コルベリ他の刑事のシーンを増やして、刑事群像小説に転換が図られたようにみえる。この個性豊かな刑事たちのコンダクターたるマルティン・ベックはやっぱり不思議なキャラクターだ。常に迷っているように見える。部下たちに強く指示を出すタイプでもない。部下は部下で勝手に動き始める。しかも部下に対してはソフトで、強面で君臨するタイプではないからタメ口をきかれたりする。それでも部下の警部たちはちゃんとベックに敬意を払っているから不思議なのだ。両極のグンヴァルド・ラーソンですらベックには畏れを抱いている。これはもう人徳としか言いようがない。なんとも不思議なキャラなのである。今回はベック一家がいつにも増して大活躍する。毎度ながらほろ苦さも出色。笑われようが蔑まれようが市井の刑事たちは必死に生き、凛々しく行進してゆくのだ。彼らの地道な努力があってこその街なのである。

 最後にちょっと気になる階級の表記について。ベックの肩書きは警部から警視長を経て主任警視になった。この物語では、ハンマル警視長というベックの上司がいるから間違いなんだろうね。コルベリ、メランデル、ラーソン等は作品によって警視だったり警部だったりする。一体どっち? 正解は警部でしょうね。スウェーデンの警察機構も解説してくれれば良いのに。自分で勉強しろって……(^^;;;。 

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消えた消防車THE FIRE ENGINE THAT DISAPPEARED M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和48年12月20日 初版
 ベック・シリーズ第5作で、グンヴァルド・ラーソン大活躍の巻だ。冒頭から、その威風堂々たる体躯を生かして大魔人のごとき脅威の働きを見せつける。しかも、ラーソン・ファンへのご馳走はこれだけではないのだ。個性派揃いの警官たちにあってひときわ異彩を放つラーソンなのだが、筋肉の一部と思われてきた彼の脳味噌に本来の働きをさせているのだ。ラーソン・ファンにはたまらないでしょう。結構もてもてだし……。ただですね…、この人ホモなんじゃないかと思われるフシがあるのですね…(^^;;;。フリーセックスの国スウェーデンだからってわけじゃあないんだけど…。どうなんでしょう。女っけもないし、色々とホモに好かれそうな気がするんだけど…ま、違うんでしょうね。ホモの刑事といえば、ジョナサン・ケラーマンのアレックス・シリーズの続きを読まなくちゃ……。

 この物語の大きな特徴は結末の危うさ曖昧さ、でしょうね。緻密な捜査、綿密に組み立てられたプロット、刑事たちの描き分け、社会性、そのどれも大きく劣っているわけではないんだけど、この危うさをどうとるかでしょう。ストックホルムといえどもヨーロッパの一部であるのは間違いない。個人的にはこんな風に描いてしまうと、いかにも小粒で、悪く言えば逃げたような印象を持ってしまうのだ。本来のリアリズムも損なわれてしまったような気がする。跋扈していた犯罪映画の影響なんでしょうか。せっかくの正義感が空しく思えてしまったのだ。ベック等が犯罪に対して、どこか達観してしまったような気もしてしまったし…。なんで戦わないのさ? いただけないね。

 謎解きのおもしろさならば、高見浩さんもおっしゃるようにかなり上位だとは思う。加えて、一見脈絡の無い冒頭に連なっていく構成の見事さ。でもやはり、あの『笑う警官』を読んだ後ではかなり落ちると言わざるをえない。それでも水準は軽くクリアしているのですよ。多彩な刑事たちの生活面にも踏み込んできて、大河小説的なおもしろさも出てきたようだし…さあ、シリーズ最後まで読み尽くさなければ。 

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サボイ・ホテルの殺人 MURDER AT THE SAVOY M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和57年5月30日 初版
 いよいよベック・シリーズも第6作。詳細な邦訳順はわからないが、これもまためちゃくちゃな順番だったのですね。本邦初登場が『バルコニーの男』で、これが昭和46年。この物語が昭和57年だったってことを考えれば、イアン・ランキンのリーバス・シリーズが全作邦訳されるにはまだまだ時間がかかるのですねぇ。サッカーで日本がワールドカップを制していたりして…(^^;;;。絶対無いか…(^^;;;。

 社会派の面目躍如である。経済成長の軋みと穢れが、無垢な庶民に襲いかかる。作者の言わんとしていることは痛いほどわかる。でも今読むと、とっても古臭く感じられるのが残念だ。こういう切り口の作品は掃いて捨てるほどあるから…。リアルタイムで読みたかったですね。この穢れの部分が企業だけでなく、警察内部にもあって、ベックには政治的な圧力がかかる。このあたりは読ませる。今まで政治あるいは権力に対して、無関心を装ってきたベックが、懐に隠し持った牙を剥くのだ。焦点のずれた権力志向の亡者を、皮肉たっぷりにユーモラスに描いていて読むほどに楽しくなる。こんなベックは始めてだ。

 はじめてと言えば、ベックのラブ・シーンがある!! これには驚き。いかにも好色なコルベリならわかるんだけど…。まだある。グンヴァルド・ラーソンだ。ホモだと思っていた彼が女性にちょっかいを出そうとするのだ。これもまたびっくり。しかも、ラーソンの秘められた過去と家族を垣間見ることができる。う〜ん、シリーズ物にはこんな楽しさもあるのですねぇ…。今回はメランデルもルンも休暇中で登場しないから寂しいんだけど、その分、マルメの木枯らし紋次郎ことモーンソン警部が大活躍する。それにしても作者の人間観察眼は並外れていますね。

 考え抜かれた精緻なプロットは相変わらずなんだけど、今回は首を傾げる箇所がある。ネタバレにはならないから書いてしまうが、射殺犯の人相である。あの程度の人相書きが回っただけで、フェリーや空港から報告が入るなんて考えられないのだ。コペンハーゲンといえば大都会でしょ? たったあれだけの人相書きであんな情報が集まるなんて、安易に過ぎると思うのだ。『消えた消防車』でもちょっと強引かな、と思わせる箇所があった。『笑う警官』を頂点として、衰えてきてしまったのだろうか。気になるところである。 

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唾棄すべき男 THE ABOMINABLE MAN M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和57年11月30日 初版
 ベック・シリーズ第7作は、完全にミステリの枠組みを超えた作品になった。作者がテーマを強調したいがために作り上げた、ストレートなストーリィとストレートな犯人像。ただし、ミステリ的なサスペンスなりスリルが主題ではないからこれで良いとは言い切れない。犯人探しにもう少し力を入れれば、もっともっと響く作品に仕上がったと思うと残念だ。さて、そのテーマは警察権力そのものといえそうだ。作者がスウェーデン社会にむく牙は、前作あたりから具体的に政治体制、ひいては警察そのものに向かいつつあった。それがこの物語で沸点に達した感がある。

 中世の封建社会と変わらないようなスウェーデン警察の実体。もちろん、少数派には違いないのであるが、職務怠慢が権力を濫用するとこうなるぞ、という見本のような殺されたニーマン主任警部。単なるサディスティックな悪役ではなく、立派な家庭人として描かれるところにこの物語の妙がある。かたやつけ狙う犯人は、坊主憎けりゃ袈裟まで的妄執に捕われて、まさかのベックにまで襲いかからんとする。この哀愁漂わす犯人像が、刑事たちの口から語られるにつれ徐々に明確な像を結ぶようになっているのだ。これはさすがにうまい。しつこいベックの電話攻勢は、刺身のツマみたいなもんだが。

 犯人に感情移入してしまう刑事たち。ただし、犯人は想像を超える段階にまで進んでしまっていたのだが。やはり『笑う警官』がターニングポイントだったのだ。ここに出てくる刑事たちは、少なくとも凛々しく行進してはいない。疲れ果て、心身ともにボロボロになりつつ、良くも悪くも現実的にのたうっている。その点からみれば、『笑う警官』よりも好みだ。表裏一体の悲しい犯罪を警官の目から多面的に描く姿勢は、敵役を誠実に描いてより一層深みを増した。一筋縄ではいかないのだ。

 シリーズでは珍しいアクション・シーンもなかなかだ。機関銃を乱射したり、ヘリを墜落させたりと物量作戦も効を奏しているかもしれない。ガスマスクの向こうに見えた哀れな青い目。この物語を我が日本の警察に捧げたい。社会の歪みが、警察を鬼っ子にしてしまうのは、なにもスウェーデンだけではないのだ。ここで語られるスウェーデン警察の身内に対する甘さは、そっくりそのまま我が日本の警察にも当てはまる。警察の患部じゃなかった幹部の皆さんは、この物語を読んで見識を深めるべきであるな。警察学校の教科書にしても良いかも。

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密 室 THE ROCKED ROOM M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和58年1月5日 初版
 マルティン・ベック=シリーズ第8作は、作家的成熟を充分に感じさせる傑作であった。前作『唾棄すべき男』で感じた厭世感が強くなっているようには感じられるが、それこそがスウェーデンの現実だったのだろう。『笑う警官』で描かれた警官たちは、一様に溌剌として希望に溢れているように見えたものだが、それからわずか4年半の間にここまで変わってしまったのか。ストレートな正義感は善と悪の間で揺れ動き、機構改革を発端として湧き上がった警官たちの閉塞感はペシミズムへと移行するしかなかったのだ。作者自身の変化なのか、スウェーデン社会全体の変化なのか。どちらが是というつもりもないが、個人的には奇麗ごとに終始したように見えた『笑う警官』よりも、こちらの方が遥かに好みなのは間違いない。プロット、ストーリィテリング、硬軟取り混ぜた構成、戯画的な人物とその配置、謎解きの妙、どれを取っても納得できるシリーズ最高作品だ。

 なんといってもプロットが最高ですね。真犯人の意外性という点では最高じゃないでしょうか。過去7作のベック・シリーズに薄かったのがこの点だと思うのだ。いずれも未知の人物。このような意外性こそがミステリのおもしろさで、絡みつく謎解きのおもしろさと共に十二分に味わわせてもらえる。密室の謎解きも、チャンドラー・ファンという作者ならではで好ましい。

 構成もうまい。巷では連続強盗事件が起きている。それを仕切るのが”ブルドーザー”の異名を持つドン・キホーテ、地方検事ステン・オルソンだ。彼の一挙手一投足には笑うに笑えない毒がたっぷり練りこまれて、非常にブラック。グンヴァルド・ラーソンやコルベリまで引っ張られて右往左往だ。その一方で銃弾から15ヶ月ぶりに復帰したマルティン・ベックの孤独な捜査が描かれる。対象は密室で発見された死体。強盗捜査を動とするなら、ベックは静。動と静を緩急自在皮肉たっぷりに描きながら、ベックの魂の浄化までやってのける。こんな荒技を余裕綽々でやってのけるんだから、凄まじいばかりの筆の冴えだ。いままでの若干教条的で冷たく堅苦しい作風から一皮むけて、静かな中にも熱を帯び、しかも作者自らが楽しんで書いているようにもみえる。最後の最後までこの姿勢は崩れることがなかった。

 ベックの癒しの女神として登場するレア・ニールセンだけど、この人はベックの恋人になるのでしょうね。ちょっと作りすぎだなあ、この人は。でも、一瞬にして恋に落ちた二人がベックの密室をこじ開ける姿は心温まる。国家と対比されているような気もするし。眠るだけのベック……いいですね…。ベックのペシミスティックな姿勢は変わることがないかもしれないが、警官という職業を愛し折り合いをつけていく姿は共感できることが多い。残すところ2作。読むのが惜しくなってきた。

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警官殺し COP KILLER M・シューヴァル&P・ヴァールー 高見浩訳
角川文庫 昭和58年3月25日 初版
 過去2ヶ月に渡って堪能してきた、マルティン・ベック=シリーズもいよいよ大詰めにさしかかった。数えて9冊目。前作『密室』で殻を破ったベックは、レア・ニールセンのおかげで生まれ変わったようだ。ペシミスティックな雰囲気は相変わらずだが、警官という職業が作り上げた悪癖、常に警官というペルソナを被りつづけなければならない、という強迫観念から少しは解放されたようだ。物語は巻を重ねるごとに味わい深くなっている。痛切なベックらの思いと無力感絶望感。対照的に狂乱する上層部と踊る一般警官。ベックらの思いとの乖離は一層顕著になり、ついに一人の刑事を懸念された行動に走らせる。これについては、巻末の高見浩さんが解説で思いっきりネタバレしているので、絶対に解説を先に読まないこと。絶対に。

 ベックの思いを代弁するかのように、ストックホルムの喧騒とかけ離れた田舎町で物語は進む。出向くたびにその土地の脇役刑事が良い味を出すんだけど、今回のオーライ警部は出色かもしれない。このベックに、このオーライあり、ってところだろうか。ミステリ的に見ればストーリィはぶつ切りで脈絡無く見えるし、謎解きも偶然に頼っているようであまり見るところがないかもしれない。しかし、すでにベック等はぼくの懐深く入り込んでいる。しかも今回は、第1作『ロゼアンナ』と第2作『蒸発した男』の犯人まで再登場してくる。罪を憎んで人を憎まず。主だった刑事たちに代弁させる作者の姿勢が哀切さえ伴って、ぼくの胸に迫ってくるのだ。

 殺人課の主任警視がこんなことしてていいの? とは言わずもがな。同じ警視連中が主人公のミステリと読み比べても、そのあたりはかなり落ちるだろう。でも、それが主眼の小説群ではないから。ごく普通の人間をごく普通の刑事として描いたところにこのシリーズの良さがあると思うのだ。決して、劇画チックなスーパーヒーローではなく、本格物の名探偵のように人智を超えた推理力があるわけでもなく、奇を衒わず、あくまでも地味に。仕事に悩みを抱え、家庭に悩みを抱え、それでも社会を憂う。こんな刑事たちが、ぼくはとても愛おしいのだ。シリーズ全般を通しても忘れられない味わい深い逸品である。

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テロリスト TERRORIST M・シューヴァル&P・ヴァールー
角川文庫 昭和58年4月25日 初版
 しかし……、滅多なことを書くもんじゃないな>自分。シリーズ全作読む前に第8作『密室』があまりに良かったので、これがシリーズ最高作と書いてしまった。とんでもない先走りでありました。サスペンス溢れるストーリィ展開、マルティン・ベック=シリーズ愛好者の思いを凝縮した人物配置、冒険小説好きを小躍りさせ本格マニアをも唸らせるであろうテロルの決算、しかもシリーズ初の法廷シーンまで登場させたこのシリーズ最終10作目こそが、マルティン・ベック=シリーズの紛れもない最高傑作でありましょう。

 シリーズここまでの作者の小説スタイルは、良くも悪くも淡々と事件を捜査する、言ってみれば地味な捜査小説と言うべき面が強かった。物語の中で明確なタイムリミットを設定した作品はなく、事件発生から解決までのスパンが比較的長いのが特徴だった。ミステリ的なおもしろさは、粘り強く捜査を続けるベック等の動きや謎解きのプロットにあり、決して手に汗握るサスペンスではなかったのである。唯一第3作『バルコニーの男』に若干サスペンス性が見うけられる程度だろうか。捜査小説としては、『密室』でベックに単独で捜査させ、作者のやりたいことは全てやり尽くしてしまったようにも思えてしまう。次作『警官殺し』から作風が変化してように見えるし。

 そして、最後を飾る『テロリスト』だ。『密室』『警官殺し』と続いた味わい深い小説的深みを継承した上で、更にそこにタイムリミットを二重に設けサスペンスを煽る。中盤以降はページを繰るのももどかしいほどだ。『密室』で見せた円熟の境地から、もう一歩突き抜けようとする貪欲なまでの作家の自己追求。見事に結実している。最後まで飽きさせない。追い詰められたテロリストはベックまで付け狙う。照準器に映し出されるレアの乳房。ひゃああっ! レアは撃たれるのか、ベックの運命は……。

 見事な法廷シーンと殺人事件解決の前半部と、アメリカ上院議員警護の後半部が繋がらないじゃないか、と思う方もいるかもしれない。実際、圧倒的な後半部のため、読後は前半部を忘れたくらいだ。しかし、時が経つにつれ、じわじわと前半部が生きてくるのだ。作者の意図はあの前半なくしては成り立ち得ない。悲しきテロリスト。作者の示すテロリストとは一体誰のことか。同情を禁じえない悲しきテロリストの末路。第25章、弁護士ブラクセンの罪状認否の長広舌に作者の思いが込められている………。語り尽くせぬ魅力に満ちたシリーズ最終巻でありました。
 
 残念ながら、稀代の警察小説マルティン・ベック=シリーズはこれでおしまい。作者の意図は後半作品になるほど強くアピールしているようだ。これだけの名シリーズを今の今まで未読だった自分を恥じる気持ちもあるが、多くの人に読んで欲しいと願う警察小説の傑作シリーズでありました。

 おっと、冒険小説ファンには絶対のオススメの『テロリスト』だが、これだけ読んでもダメ。是非ともシリーズ1作目『ロゼアンナ』から順番に読み進みましょう。執筆年代の古さを全く感じさせない普遍的警察小説のシリーズだから…さ。

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マルティン・ベック=シリーズ雑感

休暇と語学警視の職務女性たち脇役たち供応?習慣?



休暇と語学

 読むたびにわが身を振り返ってしまうのが、働き蜂たる境遇とわが日本の現状なのである。シリーズの執筆年代は1960年代中盤からその後の約10年間。日本でいえば、高度成長前後にあたるのだが、なんと言っても一番の驚きは潔い休暇だ。当時ですら、労働者には3週間以上の休暇が認められているのだ。大抵は6月にとる。ベック等はその期間に何度も事件に遭遇する。決まって出るのが、優秀な捜査員が休暇でいない……。しかも大方の連中はあたりまえのように外国に行く。警官ですら、休みは当然の権利と主張しているんだから、いやはや現代の日本ですら、いやいやこれからも永久にヨーロッパに追いつくことはできないでしょうね。もちろん、当然土日は休む。ホンマかいな、と目を剥く描写も多々あってそっちの方がおもしろかったりするのだ。語学に堪能なことにも驚いてしまう。彼らは母国語の他に英語、ドイツ語、デンマーク語あたりは当たり前のように操るのだ。もちろん、人によって得手不得手があるんだけど、加えてフランス語や、イタリア語まで操ってしまう人がいたりする。地続きのヨーロッパならではなのですなぁ…。いずれも聞きかじってはいたことなんだけど、今更ながら文化の違いに感じ入ってしまったのである。たった10日間の休暇にも周囲の目を窺い、土曜は人目を憚って休み、たまに英文のメールが来たといっては大騒ぎしているぼくらって一体何なのでしょ? 

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警視の職務

 マルテイン・ベックはスウェーデン警視庁殺人課の主任警視である。警視といえば、警察組織でもかなり上の部類に入るだろう。日本ならば、巡査→巡査長(便宜的階級)→巡査部長→警部補→警部→警視補→警視→警視正→警視長→警視監→警視総監…だっけ? しかもベックは主任警視だ。この階級は日本には無いと思うけど、ま、課長みたいなもんなんでしょうね。それにしては……それにしては、水際立った捜査指揮をしないのだ。他のミステリの警視といえば、真っ先に思い浮かぶのがクィンティン・ジャーディンのスキナー警視、あるいはトマス・チャスティンのカウフマン警視、ピーター・ラヴゼイのダイヤモンド警視、他にはダルジール警視だとか…あと誰がいたっけ…。先に書いた二人は捜査指揮の点では申し分ない豪腕ぶりを発揮する。組織を動かすという意味では実にその階級らしい働きを示すわけだ。変わってダイヤモンドやダルジールは実務派現場派とでもいうか。当然ベックは後者に属する。でもね、スウェーデンの警察機構がよくわからないので言いずらいんだけど、一本化された国家警察のストックホルム警視庁殺人課の主任警視といえば、日本の警視庁の捜査一課長以上の実力者なのは間違いないでしょう。それが、捜査の指揮をとるどころか、単身出張して単独で捜査したりする。これはおかしいよね。ベックの指示を仰ぎたい人たちがたくさんいると思うんだけど。捜査小説としてのリアリズムは申し分ないんだけど、ベックという人に拘るあまりそのあたりが甘くなってしまったような気もしてしまうのだ。

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シリーズを彩った女性たち

 スウェーデンには「フリーセックス」というイメージがある。その言葉から類推されるスウェーデン女性はとても解放された印象が強い。だが、第1作目『ロゼアンナ』の奔放な死体のヒロイン=ロゼアンナ・マグロウはアメリカ人だ。して、犯人はロゼアンナの奔放さに憎しみを感じたスウェーデン人である。これは、作者のアンチテーゼなんでしょうかね。当時の状況がわからないから、当然推測の域を出ないんだけど、作者のある主張が読み取れるような気がするわけです。その他印象深いのが、レア・ニールセン、コルベリの出来た奥さんのグン、ステンストルム刑事の恋人オーサ・トーレル。ここにベックの奥さんが入ってこないのは、シリーズを読んで納得して頂くしかありませんね。ネタバレになるので一人一人には詳しく言及しないが、一様に言えるのは独立心が強く自立した女性であるということ。しかもそれぞれが非常に良く似た性格なのだ。あ、もう一人、コペンハーゲンの木枯らし紋次郎ことモーンソン警部の愛人となる女性がいた。娼婦も自堕落な女性も登場するが、主役クラスの女性たちにはとても似た雰囲気がある。つまり描き分けができていないと思うのだ。難しいのは間違いない。だが、この作者は男性に比べて女性を描くのが非常にヘタクソと言っていいかも知れない。最初は夫婦でプロット担当と執筆担当をわけていて、この女性の趣味はどちらかの意思が強く働いているんじゃないかと思った。しかし、インタビュー記事などを読むとそうでもないらしい。好意的に捉えれば、この女性たちは作者が望むスウェーデン社会の模範的女性なんだろうと思えてくる。性の先進国の女性たちには、自立という裏付けがあってこその自由なのだ、と作者が諭しているような気もしてくるのだ。ま、いずれにしろスウェーデンの印象がぼくの先入観ならば、全て考えすぎってことになるのだな(^^;;;。

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脇役たち

 誰をとっても、ごく普通の人間。洞察力に優れ、人を見る目に長ける作者は警官たちも容赦なく描いている。『ロゼアンナ』のアールベリやコペンハーゲンのモーンソン警部、『警官殺し』のオーライなどの、言ってみれば良い方の刑事たちよりも、ダメ警官らの方が活き活きと描けているかもしれない。警視総監、マルム警視長。笑わせるのが訴え屋のウルホルム。これ以上ないくらい怠け者のクリスチャンソンとその相棒、公安のダメ刑事ポールソン、トンチンカンなサクリソン。こいつらは『テロリスト』で勢ぞろいしてまたまたヘマをやらかす。中でも、出色なのが、ブルドーザーと異名をとるドン・キホーテ=検事オルソンだ。この人の造型は非常によくできている。正義と欺瞞。毒を含んだ彼の描写が、後半のシリーズに多大な貢献をしているのは間違いないだろう。

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習慣?供応?

 とにかくよく飲むのだ。水のように、あるいはお茶のように。ベックらが聞き込みに回る。そこで相手が必ず飲み物を勧める。聞き込み相手が示す選択肢には必ずビールが含まれる。日本的感覚でいえば、勤務中にビールなんて……なのだ。それもおまわりが。昼めしを食う。必ずビール。これも生活習慣なのだなぁ。ビールの他に登場するアルコールはウォッカくらいだろうか。やっぱり寒い国でありますね。たばこはもっと解りやすいかな。誰かがたばこを吸う。すると、必ず同席している誰かに自分のたばこを勧める。これはもうしつこいくらいに繰り返される。博愛なのか、供応なのか、それとも単なる習慣なのか。習慣だとすれば、鬱陶しい習慣かもしれない。

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