神の狩人 Mortalfear  グレッグ・アイルズ 雨沢泰訳
講談社文庫 1998年8月15日 第一刷
 遅れ馳せながら読了。あまりにも期待が先走りしてしまいかえって読むのが怖かったくらい。全くの杞憂だったのだが、オビの惹句にある『羊たちの沈黙』に匹敵する、、云々はどうだろう。?
 ブラフマンの存在感は圧倒的だ。が、正直言わせてもらえばレクター博士の足元にも及ばないんじゃないかと思っている。ブラフマンは人間だが、レクター博士は完全に人知を超えちゃってる。
 作者は微に入り細にわたってブラフマンの来歴を語っている。ぼくにはそれが書きこみ過ぎのような気がしてならないのだ。超人的な異常犯罪者には違いないが、結局それが恐怖あるいは憎悪の対象として捉えにくくしてしまっている。読者にそう思わせるのが作者の意図とすれば成功していると思うが。。もちろんサイコパスだって人間だ。そんな部分を強調し過ぎたような気がしてならないのだ。アンバランスに感じられて仕方がない。目的もやけに人間的だしね。レクター博士のような得体の知れない、人知をこえた怖さはほとんど感じられないのですよ。 

 ブラフマンについては前述の通りだが物語はノンストップ。最高におもしろい。ハーパー対ブラフマンという縦の線に、ハーパーとドルー夫婦の物語が横にきっちり配置されていて読書には非常な緊張を強いられ続けたのだ。
 さて、『ブラッククロス』はどうかな?未読なんですよ。

海外作家INDEXへ

フリッカー、あるいは映画の魔  FLICKER セオドア・ローザック 田中靖訳
文藝春秋1998年6月15日 第一刷 
 いやぁ、堪能した。おもしろかった。
 出だしからしばらくは、こりゃあ一体何だぁぁ? と若干不安なまま読み続けた。なんなのかよくわからない。一人称で書いてある。物語中に「メモワール」の文字を発見してようやく人心地ついた、ははぁ、メモワールか。
 主人公は、若き日にルイ・マル『恋人たち』に興奮し、トリュフォー『突然炎のごとく』を偏愛する大学教授ゲイツ。彼が、不遇の映画作家マックス・キャッスルの作品に出会い、マックスを研究するうちに遠大な陰謀に巻き込まれていく…そんなお話。

 映画に少しでも肩入れしたことのある人なら誰でも知っている−エイゼンシュテイン、プドウフキン、カール・テホ・ドライヤー、グリフィス、ハワード・ホークスなどの名監督たち、アンドレ・バザンなどの歴史的批評家、他にも名女優、名作傑作がポンポン飛び出してくる。それだけでもうぼくは物語に引き込まれてしまったのだ。学生時代、文芸座で見た『恋人たち』のあのワイングラスの触れ合う音に身をよじり、『突然炎のごとく』の劇中歌「つむじ風」を今でも歌える(コードをコピーして伴奏付き!!)ぼくは、一語一語指先で行を追うように読んだ。マックス・キャッスルはたぶん架空の映画作家だと思うけど(未確認)、他に登場する映画作家、女優らは知った名前がほとんどで、くだけだ映画史を読んでいるような錯覚に捕らわれさえした。

 なんといっても、オーソン・ウェルズ登場シーンはリアルで忘れがたい。思わず苦笑してしまう程的確な人物描写。栄光と失意。まるで実際に本人が語っているような錯覚さえ持ってしまう。
 手紙で登場するジョン・ヒューストン。作風そのままの真面目な性格。ああ、映画については語り出したら止まらないのだ。この本は全ての映画ファンに読んで欲しい。とっても残念だったのは日本の監督の名前があんまり出てこなかったことかな。黒沢が2回と小林正樹(ただの小林で出てきたけど小林正樹のことだと思う)が1回。たったこれだけ。認識が甘いんじゃないですか? ま、映画論の対立の構図がアメリカ対フランスだからしょうがないんだけど。。しかし、この物語を読む限りアメリカ人のフランスコンプレックスは大変なものなのだな。フランス気鋭の神経記号学者サン=シールには笑わせてもらったが。

 この世は地獄、という宗教も簡単に笑い飛ばすことはできないかもしれない。ま、ひとつの文明批判でもあるわけだが、いろんな矛盾を内包しつつ人類は数千年の歴史を歩んできたわけだ。そしてこれからも。こんなことあるわけない、と思いながらもあってもおかしくない程のリアルさがあって、非常に世紀末的なムードに浸らせてもらった。
 ラスト付近について語れないのが残念だが、作者はゲイツを地獄に落としたのか、それとも地獄から救い出したのか。終章の短編映画はやはり巨大なアイロニーなのか。

海外作家INDEXへ

逃げるアヒル A Running Duck ポーラ・ゴズリング 山本俊子訳
ハヤカワ文庫 1996年4月15日 第九刷
 表紙のシンディ・クロフォードが魅惑的で思わず手が伸びた。それが約一年前。今更って気もするが、未読なんだからしょうがない。これが初ゴズリング。

 少しは期待して読んだ。結果は大部分期待はずれ。
 主人公(男)の痛みがたいして伝わってこない。後半になって徐々に男の背景が明らかになってくるが、あまりに思わせぶりで飛ばし読みしたくなった。主人公(女)は全く魅力なし。魅力なしどころかアホちゃうか!!内通者が発覚するくだりも肩すかし。もっと盛り上げ方があるはず。

 全体的にストーリー展開は雑で、出来の悪いB級ロードムービーの台本のようだ。甘すぎる。そりゃあ男と女は一瞬で恋に落ちるし、障害が大きければ大きいほど燃え上がるんだろう。だけど、この設定はあまりに安易。後半のあちこちには気持ちの悪いセリフの山。架空の息子チャーリーに関するのセリフのやりとりには胸が悪くなってしまった。恋が遠い日の花火になってしまったからだろうか>自分。ちょっと悲しい気もするが。
 
 翻訳について言えば女のセリフがどうも古めかしい。前半部分の女のセリフ回しには思わず引いてしまった。いくつかの意図も理解できるんだが、上流階級のバカ奥様風のしゃべり方で全くついていけない。
 よくぞ途中で投げ出さなかったと自分を誉めてしまった。

海外作家INDEXへ


俺たちの日 THE BIG BLOWDOWN ジョージ・P・ペレケーノス 佐藤耕士訳
ハヤカワ文庫 1998年9月30日 第1刷
 始めて読んだのだが、シリーズ物らしい。が、全くシリーズを意識せずに読める。そして泣ける。男たちの友情にすがすがしささえ覚えてしまう爽快な涙、とでもいえばいいだろうか。

 物語の舞台は1930年代から40年代のアメリカ ワシントンDC。物語の主役はヨーロッパからの移民の二世たちだ。前半はかなりしつこく11歳くらいの主人公たちの交流や、第二次世界大戦での主人公らの動きが語られる。はっきり言ってかったるい。投げ出そうかと何度も思ったが、後半になって俄然この前半が生きてくる。後半の展開は圧倒的だ。ギャング団から足を洗ったピートと、ボスの右腕になったレセボ。物語が成長したこの二人を中心に回り出してからは息をもつかせない。曲げられない男の矜持。そして巡ってくる「俺たちの日」。ああ、涙無しには読めないのだ。

 生活感溢れる移民たちの描写もなかなか。バイタリィ溢れる彼らのおかげで今のアメリカがあるのだな。しかし、アメリカ人ってそんなにボクシングが好きなのか。それとも時代を演出する小道具なのか。これでもかこれでもかとボクシングの話題がでてくる。当時のボクシングってアメリカンドリームの象徴だったんだろうか。
 音楽は当然スウィング・ジャズなのだが、後半になってピ・バップが登場してくる。チャーリー・パーカーをピートに教えたあのジュニアは最高だ。作り物っぽいんだけど心の琴線に触れるヤツだった。良質なハードボイルド、、その条件をそなえた作品だと思う。残念なのは物語が散漫な気がしたことと、視点の変化が多くて前半がつらかったことかな。

海外作家INDEXへ


極大射程 上・下 Point of Impact スティーヴン・ハンター Stephen Hunter 佐藤和彦訳
新潮文庫 平成11年1月1日 発行
 これぞエンターテメント。文句無く楽しめる。上下2巻でちょっと長いけど、長さが全然気にならない。…でも……ラストは引っ張ったなぁ。物語の中に仕掛けがいろいろある。それは時限爆弾みたいなもんだから、より劇的にってのも頷けるんだけど、あそこまで引っ張らなくてもね。。そんな仕掛けといえば、ダイイングメッセージまであるのだ。これで本格物の読者まで射程に入れたか…射程は大きく…極大射程…って(^^;;;。

 何といっても、練りに練られたストーリィが抜群におもしろい。伝説のスナイパーボブが罠に嵌められ、大統領暗殺犯の汚名を着せられる。そして、もう一人の主人公と交錯する。FBIのニックだ。ニックもまた運命に翻弄される。間一髪逮捕を免れたボブは自らの汚名を削ぐため、愛する人を守るため、陥れた組織を相手に戦争を仕掛けていく。

 この大胆な戦争を仕掛けていく主人公ボブの信条は、
 「自分や自分の大切なものを傷つけようとしている相手以外は、誰も傷つけてはならない」
 「自分の義務だと思えることをする」   このふたつだ。
 これはまるでハードボイルドのヒーローのセリフだが、ボブのストイックさはハードボイルドそのものといえよう。銃という武器を持つ者の誇りを端的に表している。この信条を胸に、ボブは人間離れした殺傷力で数多くの窮地を切りぬける。
 作者は「ワシントン・ポスト」の映画批評欄のチーフらしい。だからなのかどうかは解らないけれど、時間経過や場面転換がやけに映画的。騙し騙されの殺戮ゲームはドラマチックに進行し、長いエンディングの末迎えたラスト。大きな時限爆弾が爆発するのだ。賢明なる読者はとっくに気がついているんだけど。これで良いのだな。

 それにしても、、それにしても、アメリカにはこんな銃オタクがウヨウヨしてるんだろうか? 作者からしてが大変な銃知識。この本に書かれた銃に対する薀蓄は楽しめる人とそうでない人がいることだろう。武器を持つ人間にはボブ・リー・スワガーのようなダンディズムが必要なのかもしれない。物語そのものに銃天国アメリカの言い訳めいた一面を見たような気がしたのだけれど…

 日本では不遇の作家-スティーヴン・ハンター。邦訳順がめちゃくちゃで古くからのファンはかなりご立腹。この物語は伝説の名スナイパーであるボブ・リー・スワガー物の第1作にあたる。続く作品の『ダーティホワイトボーイズ』『ブラックライト』が先に翻訳されて、しかも、どれも「このミス」では上位入賞。怠慢だよなぁ。一体誰の?
 ぼくは幸せなことに第1作から読める。無上の幸せ。次はどれにいこう。『ブラックライト』かな。やっぱり『ダーティホワイトボーイズ』か。楽しみ。

海外作家INDEXへ


ダーティホワイトボーイズ Dirty White Boys スティーヴン・ハンター 公手成幸訳
扶桑社ミステリー 1997年2月28日 第一刷
 『極大射程』のボブ・リー・スワガーのシリーズといわれているが、外伝と言った方がしっくりくるかもしれない。この物語では、ボブとボブの父アールの名前がたった1回出てくるのみ。一方の主人公は、『極大射程』でも言及していたボブの父アールが殉職した事件で、アールが射殺したとされるジミー・パイの息子ラマーだ。これが妙に魅力のある稀代の大悪党で登場するのだ。

 重犯罪刑務所に収監されていたラマーは、いとこのオーデルと元美術教師のリチャードを連れて脱獄する。彼らの前に立ちはだかるのは悩める警官バド・ピューティだ。悩みの種はバド自身の不倫。これがサイドストーリィとなって物語をドラマチックに盛り上げ....う〜ん、このあたりは見解が分かれるような気がする。登場人物は誰一人取っても非常に極端な人物造型なのだが、バドの不倫相手は特に極端だと思う。正直言って、ぼくは興ざめしながら読んでいた。もちろん、バド側から描かれる彼の心理はかなり読ませたのだけれど…。

 アメリカの望まれる父親像的なバドとは対称的な大悪党ラマーがとっても良い。最近の犯罪者は一様に変態性欲者であったりするのだけれど、この悪党ラマーは非常にまっとうな(^^;;)大悪党なのだ。犯罪常習者で悪の権化には違いないのだが、なんとも華麗でミステリアスな魅力に満ち満ちているのだ。まさに悪の華。物語の読後に涌き出てくる味わいは、このラマーに起因すると言っても過言ではない。ライオンに強い憧憬を持つラマーは、ひ弱な元美術教師リチャードに命じてライオンの絵を描かせる。リチャードは画家の目を通して徐々にラマーを理解していく。そしてラマーになりきる。ここには血縁とは全く別の父親像がある。バドとは実に対称的なのだ。

 各所で展開されるアクションシーンも印象深いが、68歳のC・D・ヘンダスン警部補や農場の老夫婦らの名脇役も非常に心に残った。味がある、としか言いようがない。特に老警部補に与えた見せ場はいいね。

 人生はなんともミステリアス。ラマーを通して語られるのは一体なんなのだろうか。

 そうそう、翻訳について一言。随所に見られる傍点や強調文字にはどんな意味があるのでしょう。同じ作家・訳者の『ブラックライト』を読んでいるけど、やっぱり強調文字が出てくる。傍点は無いけど。原書にもあるのなら、全然かまわない。でも訳者が勝手に、翻訳では表現できない原書の何かの意味を表現したくてつけているのなら勘弁して欲しい。まさかとは思うけど。もしそうなら見苦しい。

海外作家INDEXへ

ブラックライト Black Light スティーヴン・ハンター 公手成幸訳
扶桑社ミステリー 1998年5月30日 第一刷
 幸せに浸りつつ、幸運に感謝している。この物語を読むことができたこと、そして、なによりもこのシリーズを発表順に読むことができたことに...謝謝。『極大射程』『ダーティホワイトボーイズ』の登場人物たちが微妙にからまってこの物語に登場する。だが、単純に『ダーティホワイトボーイズ』の続編でもなく、『極大射程』の続編とも呼べないかもしれない。互い強く影響し合って、壮大なひとつの物語を形成しているのだ。

 主人公はボブ・リー・スワガー。もうひとりの主人公は『ダーティホワイトボーイズ』の悩める警官バド・ピューティの長男坊ラス・ピューティだ。だが、本当の主人公は「銃」なのだ。物語中、ボブの父親が死出の逮捕劇に出かける刹那、息子に言う。悪には種類がふた通りある、と。ひとつは自らが望む悪、いわば確信犯的な悪。もうひとつは善であろうとしているのに、なし崩し的雪崩れ的に堕ちていかざるを得なかった悪。堕ちゆく者が手を伸ばした先にある銃。正義の使徒にも、地獄の演出者にもなってしまう。もちろん、アメリカに限ったことではない。ただ、現代のアメリカ社会においては非常に象徴的かもしれない。堕ちゆく者を見つめる作者の目は冷徹なのだが、この上なく優しい。運命論的な諦観すら漂う。『ダーティホワイトボーイズ』のラマー・パイは極端な後者といえよう。そして、ジミー・パイも、その従兄弟も。

 血の絆の織り成す物語はもちろん極上のおもしろさだが、忘れてはならないのはミステリー的な要素だろう。『極大射程』ではスーパーアクションに登場したダイイングメッセージで面食らってしまったが、この物語でもミステリーの要素が非常に強い。大方の予想通りといえばそれまでなのだが、もうひとつ隠し玉があってそっちには吃驚仰天だ。ただし、周到な伏線が張ってあるから、いちいち納得。ディテールへの拘りは尋常ではないのだな。ホントに凄い作家だ。

 さて、この驚きの物語群はもう1作用意されている。4部作なのだ。最終作は現在訳出中。1999年中には扶桑社ミステリーより刊行されるらしい。待ち遠しいかぎりだ。余談だが、先日、作者の新潮文庫の旧作『真夜中のデッドリミット』と『クルドの暗殺者』を捜索したが、両方とも入手不可とのこと。残念。ハヤカワ文庫の『さらばカタロニア戦線』のみが入手可能らしい。増刷すれば大丈夫なのかな。それとも古本屋にたよるしか手はないのか。

海外作家INDEXへ

大きな枝が折れる時 When The Bough Breaks ジョナサン・ケラーマン 北村太郎訳
扶桑社ミステリー 1989年9月25日 第一刷
 ジョナサン・ケラーマン。またまたはじめて読む作家。頻繁に耳にする名前だが未読だった。理由は実に簡単。「幼児虐待」というテーマのせいだ。ぼくにとって「幼児虐待」のテーマはアンドリュー・ヴァクスの専売特許なのだ。ジョナサン・ケラーマンがこの作品でMWA賞の新人賞を獲得したのは1986年だから、ヴァクスのデビュー作『フラッド』よりも後のはず。ま、1年くらいしか違わないのだけれど。。他にもペンジャミン・シュッツって作家もいるが…。要するに、ヴァクスのパクリのような気がしていたのだ。

 実に単純な理由で、二の足を踏んでいた。ずっと気になっていたのに…。こういう食わず嫌い、というか先入観は偏狭のなせるわざで、噂を耳するほどに依怙地になり、書店で見るたびにマゾヒスティックともいえるジレンマに陥らせていた。では、何故ここまで頑固に固辞してきた作家を読んでしまったのか。スティーヴン・ハンターなのですよ。わが町春日部でハンター作品を探して書店行脚をしたのだが、なかなか彼には出会えない。扶桑社ミステリーすら見かけない状況が続いた中、何軒目かで本書を見かけた。天恵を感じた。決してハンターの代替品ではなく、邂逅だったのだ。

 つまるところ、満喫しちゃったのですよ。実に都会的な雰囲気。ハードボイルドにはめずらしい、濃密なハイソな雰囲気とでも言おうか。だが、主人公アレックスの印象が薄くて残念。小児専門の精神科医という職業といい、経歴も外見も私生活も非常に派手派手なのだが、なんでかとっても地味な印象だ。あまりにカッコよく描かれすぎていて、反感を持ったのかな(^^;;)。少々カッコ良すぎるけれど、正統派のハードボイルドには違いない。ロス・マクの血を引くって複雑なプロットのことかな。これが最後まで飽きさせないのだ。ラスト付近の種明かしとその方法は、あまりにあたり前の一本調子になってしまって残念だが、この作家が幼児虐待に対する態度は付け焼刃ではないと思う。不明を恥じなければならない。

 罪滅ぼしというわけではないが、『歪んだ果実』を既に入手して取りかかっている。もうちょっとカッコ悪いアレックスを期待している。

海外作家INDEXへ


歪んだ果実 Blood Test ジョナサン・ケラーマン 北村太郎訳
扶桑社ミステリー 1989年9月25日 第一刷
 小児専門臨床心理医アレックスのシリーズ第2作。快調快調。前作ではあまりにカッコ良過ぎたためか、反感すら感じてしまったアレックスなのだが、今回は妙にすんなりと受け入れることができた。だが、非常に感情移入し難いキャラクターであることには違いない。共感できたのは、前作に比べて人間味が増したように感じたからかな。利他主義と言いながらも、かなり無理をしている姿に哀感すら感じた。

 鋭い洞察力で登場人物たちを看破していくアレックス。今回の事件は小児ガンの5歳児を巡る家族の悲劇だ。子供の両親がなぜか最新治療を拒否している。アレックスが説得に借り出されるが、両親に一度も説得を試みないうちに一家全員が忽然と姿を消してしまう。捜索をはじめるアレックス。ほの見えてくる血の悲劇。ま、ありがちな。

 全編を通じて楽しめるが、謎解き部分他の細部には少々不満が残る。今回のアレックスにも天啓が降りてくるのだ。これも反感を感じてしまう理由だな。そして誰かの口でなされる説明。悪い癖じゃないだろうか。それとも作者の意図か。アレックスは探偵ではないのだから、アレックスが謎を暴く必要はないのだな…確かに。
 いわれてみれば、伏線もある、、らしいから読む側の能力的な問題なんだろう。凡庸な読者であるぼくには、唐突な射撃犯の登場が納得し難いし、良い味を醸し出している田舎の弁護士の扱いも中途半端のような気がするし…。もしかしたら、いろんな要素の詰め込み過ぎ? どれもこれもアメリカ社会の病根ではあるが。
 これらの病根のすべてがアメリカ社会が生み出した果実(歪んだ果実)と取ってもいいかな。そういう意味では原題よりは邦題の方が数段良いですね。

 第3作目は『グラス・キャニオン』。これはすでに絶版なのだが、古書店で上巻のみ仕入れてある。下巻はどこにもない。ああ、読みたい。

海外作家INDEXへ

グラス・キャニオン 上・下 Over The Edge ジョナサン・ケラーマン 北村太郎訳
扶桑社ミステリー 1988年3月22日 第一刷
 やっと読むことができた小児専門臨床心理医アレックスシリーズの第3弾。これだけの傑作なのに1999年3月現在絶版だそうだ。版元に確認しているから間違いない。『歪んだ果実』の感想で書いたが、上巻のみを古本屋で仕入れてあった。下巻はどこを探してもない。思い余って扶桑社に問い合わせた。在庫切れではなく絶版ですね、と何度も確認しているうちに悲しくなった。どんな基準で絶版にするのか一言聞いてみたかったが、電話で応対してくれた優しい声の女性に罪はない。自分でも意外なほど素直に受話器を置いた。
 数日後、新潮社のケラーマン作品とまとめて紀伊國屋Bookwebで注文してみた。待つこと約1ヶ月。待望のメールが紀伊國屋から届いた。在庫があったのだ! 奥付によれば、7年の間に8刷も重ねている。それでも絶版とは...。残念なことに、同時に注文した新潮社発行でアレックスシリーズ4作目にあたる『サイレント・パートナー』と5作目の『少女ホリーの埋れた怒り』は入手不可とのことだった。両方とも上下組。片割れは発見してあるのだが…。こんな苦労も読書の楽しみのひとつなのかも。

 さて、このような経緯を経て手に入れた本作は期待に違わぬ傑作であった。物語は違和感がなく、実に澱みない。立て板に水といったストーリィ展開だ。読者に提示される謎も桁外れ。
 深夜3時、アレックスへ電話がかかる。「助けて!」 声の主は5年前にかかわりのあった、ジェイミーという名の天才少年。精神に異常をきたしたかの電話は、意味不明のまま切れてしまう。ジェイミーに対して多少の罪の意識を感じていたアレックスが行動を起こす。調べるうち、意外な事実が判明してくる。ジェイミーは精神分裂で、しかも世間を騒がせてきた連続殺人犯であるという。アレックスはジェイミーの弁護士に雇われ、独自に調査をはじめる...。読者を引き釣り込まずにはおかない冒頭からの展開、人物の配置、小出しにされる謎解きなど、計算され尽くした巧みな構成だ。特に謎解きの部分に前2作からの長足の進歩を感じる。前2作でアレックスに天啓を降ろす方法でしか解決できなかった謎解きが、今回はスムーズに天啓に頼ることなく解決されている。本作では具体的な証拠が山と積み上げられ、読者に呈示されるのだ。ラスト付近で周到に組み上げられる罠に、児童虐待を見据えるケラーマンの意気込みを感じた。

 こうして書いてみると良いことだらけなのだが漠然とした不満が実はある。ケラーマン描くところの人物たちがどうもピンと来ないのだ。『大きな枝の折れる時』の感想でも書いたハイソな雰囲気になじめないのか。どいつもこいつも上っ面だけ、のような感想を持ってしまう。ケラーマンという作家は会話の妙手なのだが、その洒落た会話からほの見える人物たちが、なぜかぼくの懐深く入りこんでこない。輪郭のはっきりした像を結ばない。特に、今回のアレックスは嫌味ですらある。人物ひとりひとりに凄みが感じられない。どうしてだろう。はっきりしない個人的な意見だが、この作家は人物描写を会話に頼り過ぎているのではないだろうか。う〜んん、アレックスの一人称で語られる物語だから限界があるだろうけど…。崩れた人物たちも崩れてはいないかの印象。作家の性格なのかも。いかにも真面目な雰囲気がある。大学の教授だもんなぁ……。

海外作家INDEXへ

ボビーZの気怠く優雅な人生The Death And Life Of BOBBY Z ドン・ウィンズロウ 東江一紀訳
角川文庫 平成11年5月25日 初版
 著者の邦訳3冊目にあたる。訳者あとがきによれば、胸キュン ニール・ケアリー君シリーズは5作で既に完結しており、この物語はケアリー後に書かれた作品のようだ。たぶん著者7作目の作品。『ストリート・キッズ』の初訳からは6年が経過していることを考えればやっぱり亀だなあ。『仏陀の鏡への道』から2年。やっと作者の本が読めると思ったらシリーズ外だって…。読後の感想もその域を出ないもの。『ストリート・キッズ』の印象が強すぎて、ケアリー君3作目が6月末に出るというニュースが耳に入ってしまえば、どうしてもそっちに意識が飛んでしまう。もちろん、この物語だっておもしろいし、考えようによっては新境地かもしれないのだけど。

 なんというか、、、実力のある作家の筆安めみたいな印象があるのですよ、この物語には。贅肉を切り捨てて適度な長さに纏め上げたのは好感が持てるし、国際的へなちょこ野郎ティムの人物もおもしろいし、ストーリィもそれなりなんだけど。子供は手馴れた小道具のような気がしてしまうし、悪役は道化みたいだし、お定まりの美女はやっぱりお定まりだし、へなちょこティムはボブ・リー・スワガーばりの戦闘マシーンに変身してしまうし、神様は常にティムの隣に鎮座ましましているようだし。

 過去形をほとんど用いず、現在進行形の文体で通したのが結果としてドライブ感を生んでいるんだろう。翻訳するのが大変だったんだろうな。FADVにも、たまにいらっしゃって下さる東江さんの名訳でありましょう。
 こういった底抜けに明るい物語には、なんでか力の漲った印象を持てないのですよ。もちろん良いものは良いんだけど。マイルス・ディヴィスよりデジー・ガレスピーが劣っている訳じゃあないし。アメリカっぽいっていうか。西海岸っぽいっていうか。後に残らないっていうか。手馴れた職人の技のキレとでも言うべきか。。。「最高傑作!」って信じたわけじゃないんだけど(^。^;)。

海外作家INDEXへ

ムーチョ・モージョ  MUCHO MOJO ジョー・R・ランズデール 鎌田三平訳
角川文庫 平成10年10月25日 初版
 おもろうてやがて悲しき・・・・二年ぶりのランズデールは、相変わらず胸に染み入る快作だった。でも、前作ほど四文字言葉の連発じゃない。同じ訳者だから、そのせいじゃないのだな。やはり作家の成熟であろうか。四文字言葉連発が成熟って^_^;…すみませんアメリカでの発表は『罪深き誘惑のマンボ』の方が後だからね。でも、この作品で披瀝される作者の悪に対する考え方は、実にシンプルでわかりやすい。ブロックの『倒錯の舞踏』を思い出したりもした。

 ハップとレナードの白人と黒人の迷コンビはここでも快調に突っ走る。ハップの一人称で語られる物語は、ハードボイルドと呼ばれるにふさわしいのだ。これだけのニヒルはそう簡単に得られるものではないだろう。会話のおもしろさも前作通り。思わずニヤリの連続だ。そして悲しきハップの恋。人種の枠を超え、これだけの味わい深い物語をひねり出してしまうランズデールはホントにいいね。好き嫌いで言えば、とっても好きな作品だ。

 ただし、ミステリーとして読めば、謎はストレートに過ぎたかも。あんまり大きな声では言えないけど、巻頭の登場人物一覧は良し悪しだなあ。特にこの本では許せない。おもしろ味が半減しちゃったぞ。犯人も弱いし…。なんだかもたついてるし、、サイコっぽい味付けも、単なる味付けに過ぎないし…。ま、謎解きが主眼じゃないと思えばどうってことないんだな。味わいが実に深いのである。

海外作家INDEXへ

高く孤独な道を行け Way Down on the High Lonely ドン・ウィンズロウ 東江一紀訳
創元推理文庫 1999年6月25日 初版
 はてさて、ニール君はいったいいくつになったのでしょう? 『ストリートキッズ』では確か23歳。で、その7ヶ月後の24歳で遭遇した『仏陀の鏡への道』以後、3年間中国にいたわけだから、27歳ということか。ハードボイルド青春小説などという新鮮な響きで登場した我らがニール君。勝手に付けられた看板こそ取りかえる必要はあるが、ナイーヴさを残したまま、一人前の大人の男に成長したニール・ケアリーに出会うことができる作品である。

 今回は潜入捜査を試みる。ただし、この潜入捜査が全くの無計画で行き当たりばったり。しかも鍵となるスティーヴ・ミルズとの出会いからして偶然で出来すぎ。んでもって、2歳の男の子を救い出すために潜入した先はネオナチのカルト教団…。さしておもしろ味のない教祖や敵役…。とまあ、安易な設定が目立つのだけれど、一皮むけたニールの個性と会話の妙でグイグイ読ませる。潜入捜査の辛い心情や、グレアムの教えが心憎いほどうまくちりばめられ、西部の”孤独の高み”で孤軍奮闘するニールの孤独な姿を際立たせる。ニールをはじめ、暖かな登場人物たちの体温まで感じさせることができるのだ。これは単なる”おもしろさ”を超えている。絶品と言わねばなるまい。

 さて、ニール君は”孤独の高み”に登ってしまったのだろうか? 次作ではっきりすっきりするのかな? 「高く孤独な道を行」ってもニール君に幸福は訪れないだろうし、ニール君がそれを望んでいないのもなんとなく解った。だから、次作が本当に楽しみになったのだ。2歳のコーディに己の姿を重ね合わせたニール。更なる高みに行ってしまうことは…う〜んそれもいいのかなあ(^^;;;)。 

海外作家INDEXへ

踊る黄金像 Dancing AZTECS ドラルド・E・ウェストレイク 木村仁良訳
ハヤカワ ミステリアス・プレス文庫 1994年5月31日 初版
 『マルタの鷹』のお笑いバージョンか。
 勇気を出して言えば……『マルタの鷹』がなんであんなに注目を集めるのか皆目わからないのだ。ハードボイルドの教科書みたいな評価が多いのだけれど、ぼくが求めるおもしろさとは異質なんだろう、と納得することにしている。で、冒頭に帰るのだが、この物語のお笑いは都会的なエスプリとスラップスティックとでも言えば良いだろうか。

 でも、おもしろくない。さぞ、翻訳が難しかったろうことは容易に想像がつく。「Hustle」という単語をを手を変え品を変え…。英語でしか理解できそうにない言いまわしも大変だったでしょう。それにしても…それにしてもこの訳、ちょっとはしゃぎ過ぎじゃあないかな。原書なら数倍楽しめたかもしれない。。もっともそれは夢のまた夢なのだが…(^^;;;)。

 冒頭の『マルタの鷹』でご想像の通り、この物語ではアステカの黄金像が取り合いされる。でもですねぇぇぇ…読み始めてもなかなか物語に入りこめないのですよ。かっるくて、かったるくて、とうとう最後までこんな調子でありました。どうしても物語に乗りきれなかった。登場人物の異常な多さも理由の一つかもしれない。適切な長さを軽くオーバーしたのも。。ああ、こうやって16人に当たってくんだな、ずっとこれを繰り返すんだな、と思ったらかったるさが倍増したのだ(^^;;;)。異常性格者やシリアル・キラーばっかり読んできたツケなのでしょう。黄金像を巡っての争いなんて、、ねえ。

海外作家INDEXへ