2001年7月31日(火) 読書感想『狼は瞑らない』 山岳冒険小説。「佐伯鷹志」名前のいたずら

2001年7月30日(月) 読書感想『アンテナ』 マーケティングの産物か生得のテーマか?

2001年7月27日(金) ひとりの三日間はじまる

 カミさんと子供が昼の新幹線で里帰りした。関東から遠く三重県鳥羽市だ。帰京は7/30だから三日間の一人暮らしになる。長男が幼稚園の年長のころ、一泊二日でお泊り保育に出かけたことがあって、その時夫婦水入らずなどという甘い言葉とは裏腹の緊張を味わったことがある。今回はまるっきりひとり。結婚11年目にして初めての経験だ。

 こういう時普通の男は羽を伸ばそうといろいろ画策するんだよね。たいていは酒を飲む程度だけど、…本能に依存したヤツじゃなければね…。土日が挟まれているからこれほどの好機はない。ぼくだって飲みたいのはやまやま。でも痛風がねぇ…。だから、大分から上京する網友を交えてのオフ会という絶好の機会を痛風のために断ってしまった。行ったら絶対飲んじゃうもんね。意志薄弱。

 三日間といっても、明日の土曜日は出社の予定なので、一日自由になるのは日曜日だけである。日曜の計画は、朝早くから電車じゃないと行きにくい公園を二ヶ所ほどまわって「公園へ行こう!」に掲載することくらい。時間があれば、サイトに加えたいページがいくつかあるのでそれを書こうとか、メモリを増設しようとか。チビがいないから筐体を開くにはもってこいなのね。この程度。貧困なパソコン依存生活だよなぁ。ほかにはゆっくりと本が読みたいとか。話題の宮崎アニメの新作を観に行こうとも考えたんだけど、子供の顔が浮かんでしまうのだ。長男が観に行きたいって言ってたなぁと。

 個人の文化レベルはひとりの時間を持て余すか否かで決まる、というような意味の文章を読んだことがある。ぼくの場合は持て余すことはないと思うけど、結婚以来待ちわびていた日の割には心がときめかない。家族と過ごす夜や休日だって、無理にでも自分の時間を作ってパソコンに向かっていたのだ。制約がなくてもやっぱりパソコンに向かうことを考えるぼくは、それはそれでとても健全なような気もするし、情けないくらい貧困な文化レベルだとも思う。

2001年7月25日(水) フレッツ・ADSL開通!

 って言っても、会社ですけど。申し込みから約三週間、三回線を加入させるため何度もNTTとやりとりしてやっと今日を迎えた。今日二回線で後日一回線。ぼくらは別ビルなのでどうしようもないが、本社も50台以上がぶら下がるネットワークなので回線を二つに分けた。会社でフレッツ・ADSLに加入する時のポイントは、その電話番号に電話機をつなぐのか、ネット専用で使うかなのね。ネットだけに使う電話番号ならば、ADSLを申し込む電話番号をTYPE2の専用線に変えられるか確認するべき。でも、電話には加入権があって、金銭的な何がしかもあるし、音声通話用の電話が足りなくなったときに困る。面倒くさいし、よく切れるなんて噂も聞いたので保険代わりにTYPE1でいいかも。もちろん、新しい回線をTYPE2で申し込むという手もある。

 約束の午後3時、開通したとNTTから報告の電話があってびっくり。すぐ作業に入る。ぼくのオフィスはたった五台のLANだから簡単に済むだろうと思ったらとんでもない。NTT−MEのルーターで接続するのにものすごく手間取ってしまったのだ。最初は、プロバイダのフレッツ申し込みを別IDでやってしまい、続いてADSLモデムとルーターを電話線で繋ぐというタコをやらかし、結局、独学で技術者顔負けになった社内のネット担当おぢに助け舟を出してもらった。で、めでたく開通。

 ルーターの設定は、ともかくIPを自動で取得するように設定しておけば問題ないみたい。でも、本社の方はLANに10台近くのプリンタがぶら下がっているのでそれじゃプリンタが使えなくなってしまう。ぼくのオフィスも同じにしようってことになって、仕方なく固定で割り振るように設定した。これが大変。マニュアルに書いていないことをやらなくちゃいけなかったらしい。TCP/IPのプロパティで「ゲートウェイ」と「DNS」を設定しなくちゃダメなんだと。「ゲートウェイ」はたいていが「192.168.1.1」というヤツね。「DNS」はプロバイダから振られたヤツ。「ドメイン」には、プロバイダ指定の@マークから後のIDを入れればOKだった。

 フレッツ・ADSLね、ものすごく早いですよ。あんなのを経験しちゃったら、56kのダイヤルアップなんてアホらしくて使えなくなる。自宅のネットの遅いこと。しかも常時接続だから、知りたいときにすぐつないで調べられる。問題はセキュリティだけど、ルーターだから少し安心しているんだけど、ヤバイかな? ああ、あれを体験してしまうとこんな遅いネットはやってられない。自宅もなんとかしなくちゃ。

2001年7月24日(火) サイトを持つことは自分を見つめる良い機会かも

  「ホームページをやってみたいんですけど…」 こんなつぶやきをよく耳にする。どんどんやればいい、とこっちもつぶやくように答える。「問題は内容なんだよねぇ…。何のホームページにするか…」 確かにそれは問題だ…。始める前は大げさに考えがちで、自分が世界に向けて発信できる情報ってナンだろう、なんてマジに考えるのだ。

 そんなもんあるわけないよ(^^;;;)。ネットは意志を持ってよりグローバルに広がるか、閉じた狭い輪の範囲で活用されるか、どちらかしか生きる道はないのだ。個人サイトなんてグローバルに広がる意味はほとんどない。なら狭い範囲で自分の好きなことをアピールするしかない。考えることは無駄じゃないんだけど、実生活で出来ていなことはウェブサイトを運営したって出来ないのだ。自分を見つめる良い機会かもしれない。

 中小企業なら、インターネットはすぐに金になるって未だに信じているおめでたい社長がたくさんいる。世の中、やれITだデジタル化だって猫も杓子も、錦の御旗か黄門様の印籠の如く奉って東奔西走だ。Yahoo!やアメリカのドットコム企業の衰退したとか、ネットバブルがはじけたとかなんだかんだといっても、ブロードバンドが再燃させてITは未だに錦の御旗なのだ。鵜の目鷹の目でさ、知りもしない業界に金を出してババ掴むんだろ? アホらしい。

 自分あるいは自分の会社が地に足をつけて何をやっているか。よぉ〜く考えてみるべきだと思う。偉そうでも申し訳ない。いろんなことに首を突っ込んでいるもんでつい…m(__)m。明日は、会社がやっとこフレッツ・ADSL開通する。これも乗りかけた船だから下りるわけにはいかない。楽しみなんだけど、いろいろと面倒くさい。明日は遅くなりそうだな…。

2001年7月23日(月) 選別されてしまった

 『つづく数日間彼らは山をいくつも超え草一本生えていない尾根の切れ目で馬の足を止めてこの国の南のほうを見晴かすと地には一日の最後の影がいく筋も走りやがて風も西の太陽も血のように赤くなって幾重にも重なる雲塊のなかにはいり空の裾に接する遠くの山並が淡い灰色から淡い青になりついに無と化した。』 

 いきなりの引用で申し訳ない。上記は中断してしまった『すべての美しい馬』の一節だ。異常な読みにくさ。かなり極端な一文だけど、上記に限らずほとんどが句点のないズルズル文。表現も大げさで大時代。フォークナーに匹敵しようが、メルヴィルの再来と言われようが、わかっていてこんな文章を書くなんて姿勢がまず信じられない。

 作者はどういう経緯であんな文章を生み出したのだろう。美文が良い小説の条件ではないが、あまりにひど過ぎる。訳者の所業かと思い、他の翻訳作品を開いてみたがまったく普通の文章だ。あとがきを読んだら、原文も果てしなくandでつながる文章なんだと。それならあんな訳文になるのもしかたない。多少ひっかかりのある文体が好きだが限度がある。

 もうひとつ気になるのが、セリフを示す「」がひとつもないこと。つまり、フォークナーに匹敵する文豪には文法など必要ないのだ。受賞して注目されれば、その特異な文体が認知され当たり前になる。彼が文法なのだ。ぼくには傲慢としか見えないが。ともかく、他人の傲慢に付き合うのはものすごく疲れるので、昨日図書館で借りたうちの一冊、田口ランディ『アンテナ』を読み始めた。止まらない。

 で、中断してしまった。読書中の本を放り投げて他に進むなんて何年ぶりだろう。『踊る黄金像』も『歓喜の島』も『さらばカタロニア戦線』もなんとか読みきったのに…。振り落とされた、と言った方が正しいか。フォークナーに匹敵する文豪は、読者を選別しているんだろう。ぼくは文豪に触れる資格の無い者なのだ…、選別されてしまった…。と思ったら、朝からむちゃくちゃ落ち込んだ。

 鬱に、『アンテナ』が追い討ちをかける。なんと刺激的な小説か。
 『すべての美しい馬』、できれば、なんとか読みきりたいとは思っているが…。涼しくなったら…、かな。

2001年7月22日(日) 故郷への憧憬が花火を歪に見せる?

 昨晩は地元(といっても隣町だけど)の花火大会で、7時半過ぎに長男を伴って自転車を駆ってでかけた。毎年楽しみにしている花火大会。会場となる公園は自転車で20分くらいの距離である。夜道を走りなれていない長男がバイクにぶつかりそうになって冷汗を流したりしているうちに会場が近づいてきた。

 歩いている人も、クルマを運転している人も、自転車に乗っている人も、誰もまともに前なんか見ちゃいない。溢れんばかりに膨れ上がった人の波が、目の前で繰り広げられる音と光に視線を飛ばしながら移動している。ポイントポイントに警官。彼らの交通整理のお陰で事故が起きないで済んだのかも。恐ろしい移動だった。

 結局、公園まで約40分かかる。毎年の所定の場所に腰を下ろして、遮るもののない、発火地点から100m程度の至近距離で花火見物だ。頚椎が変形している身にはつらい見上げる格好。一夜明けて首と腰に痛みが残っても、一時の楽しみは苦痛を凌駕している。花火は音だよね。それと臨場感。花火見物一番のポイントは発火地点からちょっと離れて、全体を見下ろすような無理ない姿勢で、視線の移動なく全体を見られるくらいの場所が良い。でも、至近距離に拘るのには理由があるのだ。

 ぼくの実家付近は、新潟県でも有数の花火の本場だ。長岡の花火で上げられる、例の四尺玉はぼくの市で作られたものだ(たぶん)。だから、というわけではないが花火には譲れないところがある。上京して何度となく花火大会に足を運んだが、しばらくこっちの花火を見る気がしなくなったのには理由があるのだ。

 丸くないのだ。花火は丸くなければいけない。もちろん、他の形にデザインした花火は別だが、球形に爆発させるべくデザインされた花火は、当然丸く球形に爆発しなければならない。ところが、約20年前に初めて見た東京の花火大会で幻滅してしまったのだ。

 丸くないのだ。歪んでいる。遠くから見れば見るほどよくわかる歪み。それから何度も大きな花火大会に足を運んだが、どれも歪んだ花火で正しい球形からは程遠い花火ばかり。風の影響が強いんだろう、他にもいろいろと条件があるのかもしれない。でも、徐々に見る気がしなくなった。美しくないのだ。

 それから何年も経って春日部に引っ越して、今回の花火大会に通うようになってやっとわかった。発火地点間近で見上げるように見れば、球形の歪さはたいして気にならない。その上、音も光も遠くから見るのとは比べ物にならない臨場感で圧倒的だ。それ以来、こっちの花火は発火地点間近でないと見なくなった。

 風ばかりじゃないと思う。花火の製造業者はそれほどたくさんあるわけではないから、似通った業者が作っているんだとも思うが納得できない。昔ほど技術に差がなくなったはずだが、昨日の花火も遠めにみると歪な球形でまったく美しくない。過去に見た実家付近の花火が、間違って刷り込まれているのか…。もっと美しい球形だったのだ。風ばかりじゃないと思う。

 …だが、…結局、自分の故郷への憧憬なのだろう。離れて早20数年。子供時分に見た花火が完璧な球形で美しく刷り込まれた結果なのだろう。帰ればつまらない所で、すでに実家に自分の居場所がなくなって久しい。それでも、どこか故郷を美化したい意識があって、ぼくの場合それが花火に姿を変えて意識に上ってきたのでしょう。故郷の象徴は花火だったってことかな? 上京以来、実家付近の花火大会を一度も見ていないのも原因のひとつかも。憧憬は憧憬のまま、こりゃ一生故郷の花火大会は見ちゃいけないな。

2001年7月19日(木) 読書感想『頭蓋骨のマントラ』 チベットが舞台の本格ミステリ

2001年7月18日(水) 捺印を強要する教師

 今年から長男の担任になった女性教師、ことあるごとに捺印を強制してくる。ご存知ない方も多いと思うが、小学生には連絡帳とか音読のチェック表とかいろいろと保護者が捺印する書類があるのだ。過去三年間、印鑑を押すこともあればサインで済ますこともあった。サインと言っても苗字を書いて、その周りをぐるりと丸で囲むだけ。親の字だから子供の字とは全然違う。誰が押したって仕上がりが変わらない印鑑よりも、確認の意味ではずっと正しいと思う。

 ところが四年生に進級して担任が変わった途端、サインは絶対止めてください、とのお触れが出たのだ。カミさんが出席した懇談会で言われたらしいが、その理由を尋ねてみると、「日本ではサインが定着していない。認め印というくらいで捺印が確認としては正しいから」というような説明だったらしい。

 実は、昨日初めて知った。長男の音読を聞いて、サラサラとサインしたら、印鑑片手に血相を変えてカミさんと長男が飛んできてのだ。で、前述の理由を聞かされたわけ。ちょっと信じられない。教師の真意がまったくわからない。印鑑を無くす方向で社会全体が動き始めているときに何を時代錯誤なことを言うのだろう。公文書や重要な書類ならいざ知らず、言っちゃ悪いが、教師との連絡ノートや音読の確認程度に何を四角張ったことを言っているんだろう。

 企業が署名捺印、更に捺印した印鑑証明にまで拘るのは、契約不履行やその他諸々のトラブルで発生する訴訟だのなんだのに備えてのことで、個人レベルのやりとりに印鑑なんて全く必要無いのだ。法務局まで出向いて取っていた登記簿謄本すらも、インターネットで取れるようになるかも知れないという時代になんと言う時代錯誤だろう。

 ウチの長男は、ことあるごとに担任教師の悪口を言って、反抗的な態度を取り続けているらしい。じゃあと、長男にひとつ提案してみた。「お前にシャチハタか何か印鑑を買ってやる。音読も連絡帳も親はサインで済ませておくから、その上に学校で印鑑を押せ。出来れば先生が見ている前で押せ」 顔色が変わった。いきなりオドオドした表情で情けない言い訳を始めた。

 たきつける悪い親だけど、本気でやってもらいたいと思ったのだ。できれば、親の捺印欄は空欄のまま、学校で長男に捺印させる。教師に問われたら、『「お前が学校で押しておけ」とお父さんに言われました』 こう答えなさい。「両親に見せていないんだろう」 と問われたら、「両親は間違いなく見ています。いつでも電話して確認してください。お父さんは国旗は好きだけど、印鑑は嫌いだそうです」 これだって、捺印を強制する姿と変わりないか…(^^;;;) 子供をダシにしてもっと性質が悪いな。

2001年7月16日(月) ボールを投げれらない子供が増えている? 

 長男とキャッチボールを始めてもうすぐ二ヶ月になる。だが、彼は未だにボールを満足に投げることができない。最初はひどかった。腕を上げたときに肘が極端に曲がってしまい、そのまま砲丸投げのように手のひらを前へ突き出して投げるのだ。悩んだですよ。だって、ボールの投げ方なんて教えてもらったこともなければ、考えたこともなかったからどうやって教えたらいいかわからないのだ。

 ボールをどうやって投げるか。ボールはなぜ前へ飛ぶのか。言葉で説明するのはとても難しい。自分で何度も投げる真似をしてやっとわかったのが、ボールは反動と腕の振りで飛ばすということ。反動とは張った胸が元に戻る反動で、それに腕の振りがついてくる。実はこの腕の振りが一番難しい。肘を80度くらいに曲げて腕を大きく振り上げたときに、肩から肘をボールを握った手よりも前に突き出すような格好になる。その後、肘から下が遅れて振り下ろされるわけだが、ここでも反動が利用されているようなのだ。

 こんなこと、ぼくは誰にも教えてもらった記憶がない。気がついた時には、こうしてボールを投げていた。ところが、いろいろ聞いてみると、こんな状態で満足にボールを投げられないのはウチの長男だけではないらしいのだ。もちろん、ぼくの子供時分にも何人もいたがこんなに多くなかった。最近の子供たちで満足にボールを投げられるのは、野球をやっている子か、じゃなければキャッチボールをしている子に限られるらしいのだ。

 長男の小学校では毎年「ボール投げ」を測定している。彼は四年生に進級した今年も10mちょっとしか飛ばせなかった。クラスの最高は35mで、もちろんキャッチボール経験者。ほか数人が20m台でみんな野球経験者。あとはどんぐりの背比べ。ほとんどが10m台前半らしいのだ。どう考えても、キャッチボールを始める前の長男と同じ投げ方をしているとしか考えられない。「オレだってこうやればもっと遠くへ飛ばせたのに」長男が真似た投げ方はソフトボールのピッチャーの投球フォーム。おいおい、お前は猿か…。猿は上手投げが出来ないんだよね。

 ボールの正しい投げ方をどうやって教えたら良いか、思い余って社内の野球おやぢに相談した。「今の子供たちはボールを投げられないんだ」開口一番、彼はため息をついて見せた。どうしてだろう? なんで子供たちはボールを投げられないんだろう? 会社でも話したのだが、野球をやる子供が少なくなったこと、それに付随して父親や兄弟とキャッチボールをする子供が減ったこと、遊び多様化で物を投げて遊ぶことが少なくなったこと、父兄側でもスポーツの多様化で野球の比重が減ったこと、などが上げられるだろうか。

 コミュニケーションの貧しさがボールを投げられない子供たちを産んでいる、なんて極論を吐くつもりは毛頭ないが、確実に時代は移り変わっていると実感させられる。別に、ボールが投げられなくたって困らないには違いないんだけど、なんというか、「投げる」という人間の基本動作が出来ないってかなり問題だと思うのですよ。

 ウチの長男は練習の甲斐あって、なんとか20m近くまで投げられるようになった。でも、まだまだダメ。誰か良い練習方法を知っていたら教えて欲しい。

2001年7月13日(金) cgiプログラムに苦戦する

  このサイトの掲示板は有料なのだ。テレホタイムもサクサク動くのでいいと思うんだけど、月あたり400円がレンタル料で、半年ごとに2,400円をまとめて振り込まなければならない。8月末が納入期限だ。残念ながら、「ぼく的楽天生活」を置いているDreamNetは、cgiプログラムは先方が用意した三つしか使えないのでレンタルしていたんだけど、そういえば「公園へ行こう!」の@NiftyはcgiOKだったと思い出して、やっつけ仕事で設置してみた。@Niftyは引き続き移転検討中。最近は少しは良くなった気がする。

 落としたのはkentwebのcgi。現状の掲示板の大元である。サイトのマニュアルを見ながら、一項目ずつ設定をして、はじめてのcgiは意外とスムーズに設定できた。いくつかわからないところはあるが、出社前の一仕事としては立派なもんだ、なんてニコニコ。ところが、「修正」した発言の元が残ってしまうことに気がついた。スレッドとスレッドの間がやけに広いことにも気がついた。午後の仕事の予定がいきなりキャンセルになって、時間が空いたのでネットから情報を集めるも理由がわからない。

 というわけで、これからcgiに取り組みます。あ、今の時間は@Niftyはftpできなかったかな。cgi、とても新鮮でおもしろい。今まで面倒くさくて避けてきたんだけど、うまくできればこんなに手軽で使い勝手の良いウェブツールはないのだな。どうやら老眼が始まってしまったようだし、老化防止にcgiね。老眼の話はまたあとで。

2001年7月12日(木) 参議院はタレントの天下り先? タレント候補一覧

 注目の参議院選挙が告示された。ざっと見ただけだけど、比例代表で気がついた所謂タレント候補を列記してみた。とりあえず新人のみ。

 [二院クラブ] 青島幸男(元タレント・東京都知事)あ、元か。

 [保守党] 鬼沢慶一(芸能リポーター)

 [民主党] 大橋巨泉(タレント) 幸田シャーミン(ジャーナリスト) 須藤甚一郎(芸能リポーター)

 [自由連合] 野坂昭如(作家) 高橋三千綱(作家) 戸川昌子(作家) 月亭可朝(落語家) 渡部絵美(元スケート選手) 佐山聡(プロレスラー 初代タイガーマスク) 嵐(元横浜銀蝿) 堀田祐美子(プロレスラー) 高信太郎(漫画家) 荒勢(元関取) 千葉マリア(歌手) ドクター・中松(発明王) 菅原研治(元大部屋俳優) 若井ぼん(漫才師)

 [自民党] 大仁田厚(プロレスラー) 佐藤忠志(元予備校教師) 桝添要一(国際政治学者)」

 [社会民主党] 田島陽子(法政大学教授)

 [新党・自由と希望] 宮崎学(作家)

 その他でおやっと思ったのが、梅木恒明(ラグビー監督)[自由連合] ツルネン・マルティ(元湯河原町議)[民主党] 江藤慎一(元プロ野球選手)[自由連合] 三沢淳(元プロ野球選手)[保守党] など。おっと、埼玉選挙区から林寛子なんてのがいたな。

 敬愛する北野武が、この間の「TVタックル」で「参議院は芸能界の天下り先だ」なんてうまいことを言っていたけど、この名簿を見れば納得しちゃうな。一部を除いては全盛を過ぎた人ばっかりじゃない。特に「自由連合」はひどい。

 タレント以外では、東京選挙区から一時ワイドショーを賑わせた畑恵が、「作新学院副院長」なんて肩書きで立候補していたり(現職)、元沖縄県知事の大田昌秀が社民党の比例区に名前があったり。

 廃止論が喧しい参議院だが、衆議院選挙には無いおもしろさがあるのは間違いないね。しかし、キツネ目の宮崎学があの白川勝彦の党から立候補とは…。タレント候補なんてほとんどが落選間違いなしだからどうでもいいんだけど、選挙結果は興味津々だよね。どうなりますか。って、選挙行かなくちゃね>ALL。

2001年7月11日(水) 終わりを自覚してやっと道程の半分くらいか

 大分のネット旧友から上京するという連絡があった。ぼくだけ残して、ちょうど家族が帰省しているときだったのでとても都合がいい。懐具合が寂しくて情けないんだけど、ともかくオフOKのメールを打った。何年ぶりだろう。懐かしい。本の話を思いっきりしたい! 

 その夜半、旧友に会うのが嬉しくて、何気なくカミさんにそんな話をしたら烈火の如く怒り始めた。

「痛風の再発作が出てまだ三ヶ月ちょっとしか経っていない。しかも数値が上がっているからお酒は絶対厳禁なのになぜ出かける」
「絶対飲まないと約束したところで、この暑さとアンタの性格で飲まずに済ませられるわけがない」
「飲んで発作が出たらどうする。そうなったらひとりでは病院へも行けないじゃないか」
「そんな心配を抱えたまま帰省させないでくれ」…etc

 阿修羅の如く迫ってきた。自堕落な夫を知り尽くした彼女に返す言葉なんてあるわけがない。どれもこれもその通りだから。ちょっとくらいなら飲んでも平気だろう、くらいに考えていたぼくに冷水を浴びせ掛けるマシンガン連射…。渋々、網友にはお詫びのメールを打った。彼だけでなくて、ほかの仲間にも会えるチャンスだったのでとても残念だ。

 しかし…、良く考えればものすごく怖いことなのだ。知り合い関係だから不義理を納得してもらって「君子危きに近寄らず」を実践することができるが、これが仕事関係の重要な接待だったらどうだろう。社内で調整が利くならばまだいいが、必ず自分がいなけらばならない席だったら…。他人が酔っ払うのを見ながらウーロン茶を啜るほど悲しいことはない。それもこれも病気快癒のため…。こんな理由で、自分は果たして酒を飲まずに済ませることができるだろうか。

 酒を嗜まない方にはとてもアホらしい話に聞こえるだろうな。でも、酒をこよなく愛する者には切実な問題なのだ。更に輪をかけてぼくの場合は、ちょっと歩けば患部の関節が痛み出し、電車内でちょっと踏ん張っただけで三日も痛みが取れない。幸い営業などの歩く仕事ではないので続けていられるが、もし、一日中歩き回る仕事ならば良くて配置転換、悪ければ転職しなければならないかもしれない。満足に歩けないならば、辞めても簡単に次の仕事は見つからないだろう。

 誰だって働く権利はある。当然だ。だが、そんなことよりも何よりも、普通の社会生活を送れなくなってしまっているんじゃなかろうかと考えると恐ろしくなる。公的に認められた身体障害者ほどではないが、確実に健康な人よりも体力的に落ちる人たち。世の中、こういう連中にとても厳しい。外見は変わらないから単なるわがまま野郎にしか見えないんだろうな。

 ケガや病気と限らなくても、20歳代の若者と同レベルの体力勝負を強いられているおやぢたちだって似たようなもんだろう。写植機が姿を消してパソコンに取って代わり、オペレーターもフィニッシャーも突然必要なくなったように、今のサイクルじゃ、長年培ってきた能力も知識も明日から全然役に立たなくなるなんて簡単に考えられる。実際、タダメシ喰らいで使えない部長や取締役がゴロゴロしてるんだろうな。はて、信じられるのは自分だけか。それにしても、肉体的にはもう終わったかな>自分。

2001年7月10日(火) 読書感想『模倣犯』 度を越した「あざとさ」

2001年7月9日(月) タイムマシンには乗りたくない

 昨日書いたポケモン映画のタイムパラドックス、スケッチブックについてはちょっと考えれば辻褄が合うことに気がついた。現代に旅してきたユキナリはスケッチブックをトワから返してもらっていたんだな。だから、現代のあの人が持っていても不思議はない。それでも、同じ時制に二冊のスケッチブックが存在することに変わりがない。もちろんこれもパラドックスなんだけど、ある程度容認されているよね。トワのセリフについてはまだ納得できていない。

 タイムパラドックス…。よく聞くのは、過去へ行って自分の母親を殺したらどうなるか。当然母親から生まれた自分は消滅するしかないだろう。存在できないのであれば、殺すことも不可能なはずだ…。このパラドックスに対して、ぼくの知る限り明快な答えはない。SF小説はなんと答えているのかな。他にも、同じ時制に、現在の自分と他の時制からやってきた自分がふたり存在することは可能か、なんてのもある。広瀬正の『マイナス・ゼロ』はこんな話だったかな。あれはおもしろかった。

 実は、こんなパラドックスをいとも簡単に説明してしまう「パラレルワールド」なんて説もあって、話をまたややこしくしている。世界はいろんな条件によって、無数に分岐しているという説で、とても恣意的なのだがこれならばなんでもあり。前述の母親殺しのタイムパラドックスならば、自分が過去へ行った時点で、自分が存在した未来とつながっている世界とは別のパラレルワールドが生まれてしまう。タイムトラベルした先の世界は、自分が存在していた世界とは別の世界。だから、母親を殺しても自分は消滅しないわけ。同時に存在する自分は自分であって自分でない。都合が良いよねぇ。でも疑問は残る。母親を殺して帰ってきた自分の時代は、果たして自分の世界なんだろうか?

 子供のころは、ご多分に漏れずタイムトラベルにとても憧れた。恐竜の世界を見たいとか、何世紀もの未来を見たいとか、歴史上の人物に会ってみたいとか。下世話な話なら過去へ行って馬券で大儲けとか。今なら差し詰めtotoか。自分の未来にも興味があった。SF小説の影響大だな、ロマン一杯でありました。でも、人生、明らかに下り坂にさしかかった現在は、少しくらいは未来の世界を知りたいとは思うが、自分を含めた家族の未来なんて知りたくない、というのが本音だ。イヤでも突きつけられるんだからね。かといって自分の過去へ行ってみたいかというとそれもない。間違いを指摘したところでどうなるもんでもないもんね。きりがない。馬券とかtotoとか株なんかはとっても魅力的なんだけど…。

 未来にロマンを感じず、過去の自分にアドバイスしても高が知れてるなんてのは、老化現象の最たるモノなんだろうな。過去は修正しても自分の性格は変えられないもんね。いずれは同じ穴に落ちるんだろう。子供たちの未来は、毎日の生活を通して少しずつ変化を読み取りながら、ついでに自分もトシをとりながら知ればいい。親はそれほど遠い未来を待たずに鬼籍に入るだろうし、自分も兄弟も似たようなもの…。…というのは表向きで、実は怖いのだ。一足飛びに未来を知るのが堪らなく恐ろしい。長じてからは、どうしても暗い未来を考えてしまう傾向がある。明るい未来、明るい社会、明るい家族。こんなお題目が信じられなくなって久しい。これは性格なのかな。これでも明るい夢と希望はあった、…じゃなくて今でもあるんだけどね…(^^;;;。夢が適ったところでどうなるもんでもないと知っているのだ。果てしがないから。

2001年7月8日(日) ポケモン映画『セレビィ』のタイムパラドックスと疑問

 天気予報が思いっきり外れて、すっきりとさわやかに青空が広がった土曜日は、ポケモン映画『セレビィ 時を超えた遭遇』の封切り日だ。長男に約束させられている。彼が学校から帰ったら見に行かねばならない。ポケモンにまで波及した「癒し系」がどうかなんて興味はないんだけど、約束だからしょうがない。「癒し系ポケモン」ねぇ…。

 行った先の映画館、といってもいつもここなんだけど、ともかくここが最近見かけない昔風の小汚い映画館でとても郷愁を誘う。で、その話でも書こうかと思ったら、映画を見ていていろいろと気になることがあったので、ちょこっとだけ感想を書いてみる。以下、思いっきりネタバレの部分があります。注意してください。

 まずタイトル。「遭遇」と書いて「であい」と読ませるんだけど、もっと相応しい熟語があると思う。それは「邂逅」だ。毎度の広辞苑によれば「遭遇」は、「思わぬ場面であうこと。不意に出会うこと」。「邂逅」は「思いがけなく出会うこと。めぐりあうこと」とある。どちらにも「不意に出会う」というような意味があるが、「遭遇」はどちらかと言えば「出来れば会いたくない出会い」で、「邂逅」は「待ち望んでいた出会い」だと思うのだ。同じことが敬愛する浅田次郎さんのエッセイ集にも書いてある。どのエッセイかは俄かには思い出せないが、浅田さん一流のユーモアたっぷりで「邂逅」と「遭遇」について書いた章があった。この映画の出会いの意味を考えれば、間違いなく「邂逅」。だから正しい副題は「時を超えた邂逅」だ。

 もっと気になるのが、タイムパラドックスについてなのだ。ぼくはSFには詳しくないので、うろ覚えであることを最初に申し上げるが、この映画では過去と未来の関係性が破綻していると思うのだ。

 問題なのは、セレビィによって40年前から現代へ飛ばされてきたユキナリのスケッチブックと、トワ(少年のユキナリに、森の入り口でパンを渡した女性)が孫のミクに語るセリフだ。

 まず、スケッチブックについて。40年前、ユキナリはセレビィと共に現代へ飛ぶときにスケッチブックを落としていってしまう。それをトワが拾って40年間ずっと保管していた設定になっている。ユキナリが現れたときにサトシたちにそう言って見せる。事件が解決した後、セレビィと共にユキナリが自分の年代(40年前)の最初に消えた場所に戻ると、そこにはスケッチブックは落ちていない。このスケッチブックは、エンディングの曲が流れている時に、なんとオーキド博士の書棚から出てくるのだ?? この示唆がちょっと余計というか、わからないのだ。ユキナリ=オーキド博士の少年時代という意図はわかるが、これではスケッチブックが二冊あることにならないか。もちろん、トワとオーキド博士が感動の再会を果たして、オーキド博士の手に渡ったという説明もできるが。

 もっと疑問なのが、トワのセリフだ。現代のトワが孫のミクに、サトシたちがユキナリを伴って現れたときにこんな意味のことを言う−40年前に消えた少年の話を何度もしたことがあるだろう、あれはその少年だ−。これはおかしい。ユキナリは最後には40年前に帰るのだから、過去では消えたことになっていないはずだ。森の番人的存在のトワが、森のトンネルから出て来るユキナリに気がつかないはずがない。だから、現代のトワのセリフはおかしい。

 ただし、ユキナリが過去へ戻ったときにスケッチブックが消えているので、トワが拾ったあとに戻ったと考えられる。森の出入り口なんて何箇所もあるんだろうから、戻ったユキナリがトワの出入り口ではない別の出入り口から森を出たとも考えられる。戻ったことを知らないトワは、少年がスケッチブックを残して消えたと思ったまま40年を過ごす。だから、ユキナリが現れたときにあんなセリフを吐く? 物語の設定としてはちょっと都合よ過ぎるなぁ。それともこっちの方が自然か? 

 自分の時代へ戻ったユキナリは、トワのところへスケッチブックを返してもらいに行くんじゃないかな。だって、彼女が持っているのをわかっているんだから。そう考えた方が自然。でも、そうすると物語全部が破綻する。トワはユキナリが消えたなんてセリフを言うわけがないし。現代のトワがユキナリのスケッチブックを持っているはずがない。

 SF素人のぼくはこんなことを考えるわけ。マニアの方はどう考えるんだろう。意見を聞きたいな…。ぼくはシナリオの練り不足だと思う。じゃなければ、子供たち相手の作品と舐めてかかったか。セレビィはかわいかったけどね(^-^)。

2001年7月6日(金) ボクのおカネには羽がある

 バブルだぁ、弾けたぁってね、ぼくらは踊ったわけでもなんでもないのに、気がついたら返済で首が回らないんだな。ボーナスが出たもんで、動かすお金を計算していたらついつい勢いがついてしまい、マンション購入以来の支払い金額と元金の減り具合を調べて愕然。ついでに、固定資産税の納付書を引っ張り出して、思いっきり落ち込んじまった。

 購入して約9年。支払った額は1,500万くらい。これだけ払って、元金はいくら減ってると思います? たったの350万円ですよ。この間に長男は幼稚園から小学校に進み、二人目の子供が生まれて生活費はかさむばかり。不動産の市場価格は当時の半額近くまで下がったのに、バカっ高い固定資産税と都市計画税は相変わらずほとんど横ばいだってんだから信じられない。

 パソコンもクルマも旅行も子供もみぃ〜んな我慢すればいいんだろうね。現にそうしている(そうせざるを得ない)人がたくさんいるから、消費は上向かないし、出生率も上がらない。景気なんか良くなるわけがない。投資じゃなくて実需ね。 

 おっと、余力がなかったので支払い方法は元利金等。親の援助は期待できないし、かといってたくさん貯金があったわけでもないので、多額の頭金は入れていない。だから、大きく担保割れしてしまって、この低金利の時代に借り換えもできない。八方ふさがりですよ。自己責任? 重々承知してます。

 ただね、愚痴もいいところなんだけど、「大手ゼネコン」や「そごう」や「セゾン」やトーメン」や他にもたくさんあるけど、ヤツらバブル時に放漫経営して膨らんだ債権をみぃ〜ん棒引きにしてもらったんだもんね。じゃあ、銀行がたいへんだろうって? とんでもない。政府は8兆円もの税金を投入して銀行を救済してるんだから、もう腹が立つこと立つこと。

 自分ら勝手なことばっかりやって腐るほど金を儲けたくせに、いざ景気が悪くなったら借金棒引きなわけでしょ。政府がどんどん金を出してくれるわけでしょ。お国のため? そんなら、こんだけのカネ使ったんだからもっと景気を良くしろっての。こんなこと書くとさ、ゼネコンだってそごうだって社員がいるんだ、とか言うヤツがいるんだよね。んなこと、わかってるっつーの。

 毎日毎日、雨の日も風の日も雪の日も、汗みずくになって満員電車に揺られて出勤して、着いた先では上司に疎まれ部下に舐められ、女子社員には臭いだキモイだと言われ、自宅に帰れば楽しみのビール一本すらカミさんの顔色を窺って舐めるように飲んでる。冗談じゃねぇ。一回、誰だったか忘れたけど、「平成の徳政令」みたいな案を出した議員がいた。「徳政令」とは名ばかりの寒い内容だったけど、それすらいつの間にか立ち消えた。

 「借りる側のモラル」だ? 「貸す側のモラル」だ? ちゃんちゃらおっかしいっての。ヘソが茶ぁー沸かすぜ。

 嗚呼、乱れてしまった。申し訳ないm(__)m。

2001年7月5日(木) 日本一のタコおやぢ

 倉木麻衣の新譜「Perfect Crime」、出たみたいですね。ウチのカミさんなんかに言わせると、倉木麻衣は「どこにでもいる普通の子」が「普通に歌っている」んだそうで、宇多田ヒカルみたいな輝きはないんだと。ぼくは宇多田ヒカルのちりめんのように揺れる歌声が息苦し過ぎてちょっと辛い。どっちかと言うと倉木麻衣のクールでナチュラルな歌声に惹かれるんですね。

 こないだ、ZAKZAKを見ていたら、「倉木麻衣ヘアヌード!!」って見えたもんだから、もうビックリ仰天。でも、よ〜く見たら「倉本麻衣〜」…。「木」じゃなくて「本」…、なんちゅう名前のつけかただ…。あのおやぢ懲りないよねぇ。名乗り出たときも寒かったけど、あの悪党面で娘を食い物にする姿はとっても黒い。まさか好感を持つことはないけど、どこか憎めない情けなさを漂わせてるから、好きにやらせとけばいいじゃん、ってさ。娘はかわいそうだけど。

 下手すれば世の中全部を敵回していることを承知しているはずだもんね、あのおやぢだって。でも、性懲りもなくテレビに出れば「麻衣ちゃんが、麻衣ちゃんが」と連発してわけのわからない言い訳を展開する。情に訴えるようなことを言っても誰も相手しないのにねぇ。これでもかと娘を辱めるようなことをやっちゃう。まあ、はっきり言っちゃえば「ろくでなし」小説好きのぼくには堪らない「ろくでなし」なわけです。あのくらいみっともないおやぢは珍しい。

 こうなったら、とことん娘を食い物にして、有名人の子供を持った父親の最悪の見本として、父親という父親の反面教師として君臨して欲しい。おやぢがマスコミで注目を集めたり、作ったビデオを買うバカがいるのも事実なんだからね。でも、いくら日本のマスコミが無節操とは言っても、あんなろくでなしおやぢをいつまでも報道し続けるとは思えないから、賞味期限が切れないうちにドンドン好きなことをやんなさいな。せいぜいアイディアを搾り出して尻馬に乗ることです。ちゃんと見てるからね(^-^)。

2001年7月4日(水) 上着を捨て街へ出よう

 朝から蒸し上げられるような暑さ。このくらい暑くなると、ぼくはネクタイを締めないで出勤する。適当に選んだ一本をバッグに忍ばせて会社で締めるのだ。足元を見れば、痛風以来、皮靴もやめてしまって黒いスニーカー。もちろん上着なんか着ていない。一般的なサラリーマンの常識からはだいぶ外れているかも。

 この欄では何度も書いているが、6月から9月一杯(場合によっては10月中旬まで)ぼくは半袖ワイシャツにネクタイ姿で通すのだ。今日なんか静岡県で39.1度を記録した都市があったのですよ。こんな亜熱帯みたいな気候の国で上着もないもんだろう、というのが上着を辞めた理由。ネクタイを締めていれば礼は失しないはずだ。背中や脇の下に汗染みを作って額に汗して上着を着ている方が、よっぽど不潔で礼を失している。特に、おぢは汚らしい汗が発酵して加齢臭プンプンだよ。上着無しの方がずっと清潔。

 20歳代の半ばから上着を着ていない。当時、たいへんな抵抗に遭っただろうことは容易にご想像いただけると思う。「上着を着ないと相手に対して礼を失することになる」「社会人として当たり前のことだ」上司たちは、判で押したように同じ小言を繰り返す。社会人失格とまで言われた。開襟シャツにノーネクタイでいいんじゃないかとすら思うのに…。固定観念に凝り固まった保守的なおぢがたくさんいたのだ。しょうがないので、上着だけ会社に置いておくなどの対策をとった。

 数えれば10数年になる。さすがにこのトシになると誰も文句を言わない。ぼくだって文句を言うつもりもない。ところが、周囲では誰も真似をしないのだ。…ということは、よほどぼくに人望が無いか、若いクセに凝り固まったヤツが多いのか、社会の要求が強いからか、よくわからない。きっと人望がないんだな…(^^;;;)。それと根強い上着信仰。上着を脱いだら礼を失すると思っている人は、客が上着を脱いで訪問してきたら、なんて失礼なヤツだ、と思うのだろうか。若い連中は半袖ワイシャツにネクタイって、おやぢ臭くてカッコ悪いと思っている節もあるのだが、真夏にこれ以上の清潔感は無いと知るべきだ。

 ぼくが夏場に上着を脱ぐようになった当時に比べれば、半袖ネクタイ姿で街を歩く人がかなり増えたのは間違いない。取引銀行にもぽつぽつと出現しているので、浸透しつつはあるような気もする。っていうか、合理的に考えれば真夏にこれ以上のスタイルは無いのだ。男たちよ、夏は上着を捨てて街へ出よう! 

2001年7月3日(火) 真夏の憂鬱

 昨日、久しぶりにVIEWカードで新幹線の切符を買った。電話一本で買えるのでとても便利なのね。その上、着払いだけど自宅まで宅配してくれるので更に便利。こんなもん、緑の窓口まで行けば済むことなのに。でも、540円ならいいや、って思ってしまう自分に勝つことができない。

 電話での利点は、湧き出す疑問にその場で答えてもらえることなので他の選択肢はない。もちろん、インターネットでも買えるんだけど。切符は名古屋まで。「ひかりにしますか? のぞみにしますか?」ネットなら、違いをいちいち自分で調べなければならないが、電話なら料金の違いから乗車時間の違いまで一度に説明してもらえる。

 何度も書いているので知っている人は知っていると思うが、ウチの次男坊は擬似自閉症児なので、少しでも早く到着できる「のぞみ」にしたのは言うまでもない。名古屋からまだ先があるし。カミさんひとりだし…。父親が病気でちょっとヤバそうなので、ホントはぼくも行かなくちゃならないんだけど、ボーナスは税金と支払いで消えそう…、懐具合が寂しくて…。鳥羽は遠いよ…。

 落ち着きなく動き回って奇声を上げる二歳児と、反抗期真っ盛りのトロい小学四年を連れての遠出はたいへんだ。わかってます。気が気じゃない。もっと気になるのが、着いた先での親戚の反応だな。ぼく側のじーさんばーさんは、知っているのだが、カミさん側は知らないのだ。

 最近は「指差し」ができるようになったので、一時ほどの心配はしていないが、未だに名前を呼ばれても返事が出来ない。カミさんの実家の人たちも、おかしいなとは思っても口には出さないかな。説明するのはシンドイが、説明できるようにカミさんと話している。ぼくは陰でコソコソ言われるのが、ものすごく嫌いなので、いの一番に説明するように説得している。カミさんは納得しない。未だ結論出ず。押し付けてしまったようで申し訳ないがどうしようもない。

 カミさんの実家は、ぼくの実家ほどワイドショーじみた下品さはないので、実はそれほど心配していない。が、問題は8月に控えているぼくの実家への帰省なのだ。今年は鳥羽へ行くので取りやめの予定だったのだが、長男がどうしても行きたいと譲らないので渋々折れた。ウチのばーさんが難関なのだ…。

 先日も荷物の到着報告で電話を入れたとき、すかさず「どうだ? しゃべるようになったろ?」ときた。いい加減話し疲れているのでぞんざいな物言いになってしまうのは仕方ないと思う。だって、まともに言える単語がひとつも無いんだから。名前を呼ばれても返事もできない。追い討ちをかけるように、「赤ん坊のときに乱暴にあやしたせいだ」とか言い出す始末。オレが悪いのかよ…。疲れ果てて電話を切った。

 なんでこう、みんな原因や責任の所在を求めたがるんだろう。理由がない、誰の責任でもないってことをなんで理解してくれないんだろう。冗談じゃない、アンタたちが心配するよりもずっと親であるぼくらは心配しているのだ。眠れない日が何日も続いたのだ。寝てる子を起こすような真似はやめてくれ…。

 そんなこんなで鬱々とした日々なのですが、たったひとつ嬉しいことがありました。今年から参加している「テキスト庵」で毎月行っている「テキスト撰」におひとかたから選んでもらいました。嬉しいです(^_^)。紹介文がまた嬉しい(^_^)。最後にリンクを貼り付けておくかな。
「テキスト庵」 http://www.mmm.ne.jp/~soulfing/text/index.html

2001年7月2日(月) 行ったことがない場所

 ぼくは行ったことがない。親戚・社内・友人・知人を見渡せば、数十回も足を運んだ猛者をはじめとしてほとんどの方が少なくとも一回は行ったことがある場所。周囲では60歳代70歳代の方まで数に入れても、わずか数名という希少人種ということになるらしい。「行ったことがない」と言うと、一様に「えええっ!!」と驚きの表情を隠さない。大きなお世話ですよ。

 誰も彼も猫も杓子も挙って出かけているのに、ぼくが行ったことが無い場所、それは「東京ディズニーランド」なのだ。ああ、やっぱり…、ほとんど人がそう思っただろうなぁ。偏屈なおぢの言いそうなことだと。偏屈はその通りかもしれないが、東京ディズニーランドがオープンした10数年前はぼくだって20歳代だったのだ。

 「偏屈野郎!」と言われるくらいは何でもないんだけど、子供に対して愛情が足りないなどと飛躍した屁理屈を言われるとムカっ腹が立つ。念のために書いておくけど、不特定多数の各所での書き込みや日記などに触発されてこんなことを書いているのは認めますが、対象となる特定の誰かが存在するわけではありません。実際、自分がそういうことを言われたことが幾度となくあるのですよ。一度は子供に見せてあげたい、そう思わないヤツは父親失格みたいなことを。でも、それとこれとは話が別なのだ。

 一度も行ったこどがないぼくが何を言ってもしょうがないんだけど、「あそこは違う!」などと言い、ディズニーランドを特別視して、中にはほとんど神格化(オーバーm(__)m)さえしている人たちを見ると、ホントにそうかなぁ、と首を傾げたくなるのだ。誤解されたら困るんだけど、ディズニーランドを否定しているんじゃないですよ。一回も行ったことがないぼくが、否定なんてできるわけがないんだから。

 あれって、世の中の母親たちが、子供にかこつけて父親を攻め立てる最たる例でしょ? 誰が行きたいって、自分が行きたいだけなんじゃないの? 子供に見せたいとか言いながら、実は一番見たいのは母親。あ、それで良いんだけどさ。……父親たちは、芋を洗うような人並みに揉まれながら順番待ちに走らされ、昼食の予約に走らされ、重たいお土産を持たされ、ボロ雑巾のようにこき使われて精気を吸い取られる。二時間待ち三時間待ちなんて正気の沙汰じゃない。ああ、明日も仕事だ…。

 だいたい、日本人ってアメリカ輸入モノが好きなんだよね。アメリカの家庭のことはよくわからないから、以下は推測に過ぎないんだけど、ディズニーの映画やアニメは日本なんか比較にならないほどアメリカの家庭に浸透しているんじゃないのかな。アメリカのアニメって日本ほど豊かじゃないよね。アニメと言えばディズニーと定着しているんでしょう。推測ですよ。

 だから、ディズニーランドでミッキーマウスやらプーさんやらのストーリィ仕立てのアトラクションが大ウケする。ディズニーで育った子供たちが、映画やアニメでしか会えなかったキャラクターに会えて、楽しんだアニメや絵本の中にしかなかったストーリィに直に触れることができて、しかも楽しい乗り物つきなんだから子供たちが喜ばないはずがない。ディズニーには、家庭を大切にする良きアメリカ社会の香りがするんだよね。

 日本はどうかと言えば、ディズニーのキャラなんて数多あるアニメキャラのひとつに過ぎないと思うのですよ。楽しみは他にもたくさんある。子供たちに聞いてもディズニーアニメのキャラクターなんてあんまり知らない。それどころか、最近のディズニーのキャラは気持ちが悪いとさえ言う。でも、みんな行ったことがあるのですね。典型的な付和雷同。

 もちろん、日本の子供たちだってディズニーランドに行けば楽しいだろう。でも、少なくとも馴染みが少ない分、アメリカの子供たちよりも楽しみの深さの度合いが違うんじゃないかな。結局、アメリカの戦略勝ち。ある意味上流社会風の高貴な香りまでも漂わせ、コンプレックスの裏返しとしての憧憬をうまく突いて…。考えすぎか(^^;;;。おもしろいものはおもしろいんだから良いんですよ(^^;;;。

 誤解しないで欲しいけど、ぼくは遊園地も好きだし、あの手のテーマパークも大好きなのですよ。子供たちとおでかけするのも大好き。と言っても公園なんですけどね(^^;;;。普通の公園には、長い待ち時間なんて存在しないから時間は全て自分のもの。作られたものとは言え緑濃く豊かな自然があって、静かな時が流れている。別にディズニーランドに限ったことではないんだけど、乗り物やアトラクションに支配されるのとは別の密度濃い時間があるような気がする。

 毎度公園で子供とキャッチボールするだけが能ではないのは間違いない。遊園地の乗り物が公園の遊具の延長にあるのも否定しない。でも、そんな何気ない時間に真実があるようにも思う。なんというか、能動的な時間というか、楽しみの質というか主体というか、与えられるだけ楽しみとの違いというかなんというか。

 いやいや、もちろん数ある選択肢のひとつだからディズニーだって全然構わないんですよ。行ったことの無いヤツに向かって、汚らしいモノでも見るような口調で驚きの声を上げるのさえやめてくれたら。よりによって愛情不足云々を持ち出して論理のすり替えをやめてくれさえすれば。

 勝手な理屈にもならない稚拙な理屈を言って、ホントは人ごみがイヤで並ぶのはもっとイヤなだけなんだろうって? ……そうとも言うが…(^^;;;。